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第六話「忘れられた巨人 藤田伝三郎(1)」

衰退した大阪経済を持ち前の剛腕で建て直した五代友厚の死後、大阪商工会議所の第二代会頭に選ばれた
のは、長州出身の藤田伝三郎だった。

伝三郎は維新直後の動乱期に一代で身を興し、鉄道、土木、鉱山等で成功をおさめ、藤田財閥を築いた人物だ。
大阪の財界活動においては、住友の大番頭広瀬宰平らとともに五代を支えた。

大阪商工会議所の会頭は三年で身を引いたが、伝三郎の財界への影響は衰えなかった。
大阪市北区(当時)網島にあった藤田邸の門前には、訪客が引きも切らなかった。

報告に訪れる藤田組関係者だけでなく、関西の政財界の有力者、古美術商、伝統芸能の師匠、さらに山県有朋、
井上馨、桂太郎など、長州系の元老たちの姿もあった。

伝三郎は美術蒐集(しゅうしゅう)家としても著名だった。
彼が生涯に集めた古美術品は、一万点を超えると言われている。
それらは現在、旧藤田邸跡にある藤田美術館に収められている。

明治後半の伝三郎の名声と影響力は、明治前半の五代に優るとも劣らず、東の渋沢栄一にも比肩されると
言われたほどだ。

伝三郎の偉大さは、単に事業で成功を収めただけでなく、その膝下(しっか)から多くの人材を輩出したことにある。

例えば甥の久原房之介は、藤田組から独立して一代で久原財閥を築き上げ、後に政界に転じて立憲政友会の
総裁などを務めた。この久原財閥が母体となって、のちの日立、日産が生まれた。

北浜銀行頭取の岩下清周は、三井銀行大阪支店長時代に上層部と対立して辞職しようとしたところを、
伝三郎に拾われた。岩下はリスクのある案件でも、相手の人物と事業内容を見て積極的に投資をし、
阪急電鉄の小林一三、大林組創業者の大林芳五郎、森永製菓創業者の森永太一郎などを育てた。

慶応出身の本山彦一は、時事新報の記者時代に伝三郎にスカウトされた。
実業の経験がまったくない本山を、伝三郎は支配人に抜擢し事業のかじ取りを任せた。
後に本山は大阪毎日新聞社長となり、現代の毎日新聞の基礎を築いた。

これだけの男たちを配下に従えていた伝三郎が、並の人物でないのは当然のことだが、現在では伝三郎に
ついて書かれた伝記類は驚くほど少ない。その業績についても、時代の中に埋もれている感がある。

いったい、藤田伝三郎とは、どういう人物だったのだろうか。
本稿では、その忘れられた業績をたどってみたい。

藤田家の遠祖は、遣隋使で有名な小野妹子だと言われている。

その子孫が藤田姓を名乗り、周防に移り住んで酒造業を始めた。

それから六代後の半右衛門の代に、長州藩三十六万九千石の城下町、萩に移住して酒造業で成功を収めた。
これが伝三郎の父である。

伝三郎は天保十二(一八四一)年、藤田家の三男として生まれた。
この天保年間は、天保の大飢饉や大塩平八郎の乱が起こるなど、幕政が大きく動揺した時代でもあった。

父親は厳格で勤勉だった。子供たちが幼いうちから、米つきなどの家業の手伝いを命じた。
命じられた仕事が終わるまでは、食事も休息も許されなかった。
また学問にも熱心で、自ら四書五経などを熱心に学ぶ一方、店員を集めて月六回学問を教えた。

一方、母親の亀は勤勉であるだけでなく、信仰心が篤く、他人への愛情と慈善の念に富んでいた。
自分は節約に努めて働く一方、店員たちには休養を与え、恵まれない人たちに施しをするのを唯一の楽しみ
にしていた。

十六歳になった伝三郎は、跡継ぎの絶えていた叔父の家を継いだ。
もともと他家へ養子にいくことが決まっていたのだが、それを断ってまでそうしたのには理由があった。

醤油醸造業を営んでいた叔父は不幸にも若くして亡くなり、息子も幼かったため、本家でその財産を
預かっていたのだが、その跡継ぎも夭折してしまった。

さらに財産を預かった父の半右衛門が亡くなった後、長兄の鹿太郎が跡を継いだが、商売がうまくいかず
預かった資産の大半を失ってしまった。

結果的に本家が、分家の財産を使い込んだ形になった。
そのことを母親の亀が気に病んでいたのを知っていた伝三郎は、自ら分家の再興を申し出たのだ。

そういう状況だから、本家からの資金援助は期待できない。伝三郎はすべてを独力でやった。
朝から晩まで必死で働き、醸造法についても研究を繰り返した。

そうして三年で利益を出し、さらに、酒造業でも二店舗を設けるまでになった。
しかし時代は、彼が造り酒屋の主人として生涯を過ごすことを許さなかった。

嘉永六(一八五三)年ペリー来航に端を発した尊王攘夷運動は、またたくまに日本中に広がり、やがてそれは
討幕運動へと発展していった。

長州藩からも、木戸孝允、高杉晋作をはじめ多くの志士が現れ、身命を賭して国事に奔走した。
まだ若かった伝三郎も、激しくたかぶる気持ちを抑えることができなかった。