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第二話 「大胆なるイノベーション 鴻池新六(2)」

尼子の名将山中鹿之助の息子として生まれながら、武士を捨てて、腕一本で世の中をわたる決意をした
山中新六は、自分の進むべき道を酒造業に定めた。

蔵元として独立した新六は、いち早く江戸への酒の回送を考え、自ら江戸まで足を運び、販路を開拓した。

この頃の酒は、にごり酒であった。
米と麹(こうじ)を発酵させたままで、粕を分離していないから、白濁してどろりとしていた。
古い時代に、酒を飲むことを「酒(ささ)を食べる」と言ったのも、このためだろう。

ちなみに現在酒屋で売られているにごり酒は、目の粗い布で漉しているから、見かけは白濁しているが
すっきりと飲める。古い時代のにごり酒とはまったくの別物である。

新六が最初醸造していたのも、にごり酒だった。
ところが、ある偶然のきっかけから、清酒の製法を発見するのであるた。

新六が下男として雇って、雑用をさせている男がいた。
怠けぐせがあって、新六の眼を盗んでは仕事の手を抜くので、以前からたびたび注意をしていた。

ある時ついに腹に据えかねて、他の使用人たちがいる前で、強い調子で叱った。
幼い頃から武士としてのしつけを受けているから、迫力が違う。

「心を入れ替えて、今後まじめに奉公するつもりがないのなら、もはやこの家には置いておけぬ」

下男はその場では神妙に聞いていたが、それはうわべだけだった。
次の日、新六は家人から、例の下男の姿が見えないと知らされたが、気にも留めなかった。

いつもの習慣で、酒を仕込んだ桶を見回ったが、そこにはこれまでとはまったく違う、澄んだ液体があった。
すくって味見をしてみると、風味がよく、非常に美味だった。

不審に思って桶を調べてみると、底に灰汁がよどんでいた。
そこで台所に置いてある灰桶を見てみると、案の定、空になっている。

「さては、あやつめ、腹いせに酒の中に灰をぶちまけて、逃げおったか」

新六は大笑いをした。

これは当時の多くの書物に載っている話だ。
これを木灰清澄(もくはいせいちょう)法といい、分離した上澄み液を木綿布でろ過することで、
透明で風味の良い酒が生まれた。

もっとも、新六を清酒の祖とすることには異論もある。
奈良の寺院では古くから造られてきた「南都諸白(なんともろはく)」が、現在の清酒の祖ではないかというの
だ。どちらが正しいのか、という議論にはここでは立ち入らない。

むしろ特筆すべきは、新六が古くからの段仕込みに改良を加えた点だ。
段仕込みとは、麹と蒸米を何段階かに分けて酵母に加えていくことだが、その加減を工夫することで、
酵母が活性化して酒を大量生産することが可能になったのだ。

これらはただの偶然ではなく、先人が積み重ねてきた工夫に、新六がさらに新たな研究を重ねて完成させた
ものだろう。

いずれにせよ、この発見は、新六の人生に大きな転機をもたらした。
新六は商才に長けていた。
ただちに、この新製品を大々的に売り出した。

折しも、関ヶ原の戦いの勝利によって、徳川家康が天下を握った。
今後ますます、江戸が発展していくのは目に見えていた。

江戸にはすでに販路が出来ている。新六は直ちに攻勢をかけた。江戸は活気に満ちていた。
徳川家の家臣だけでなく、全国の諸大名が争って江戸に屋敷を建てていた。

短期間に膨大な人口が流入していたが、江戸と周辺地帯の生産能力はそれを養うに足らず、生活用品、
特にぜいたく品はほとんどが上方から運ばれていた。

当時、清酒のことを諸白(もろはく)といった。
新六の造る諸白は風味といい味といい、これまでのにごり酒とは比べ物にならなかった。

『摂陽続落穂集(せつようぞくおちぼしゅう)』に、こういうくだりがある。

「伊丹・池田の造り酒は諸白という。(略)満願寺は甘く、猪名寺には気あり、鴻池こそは甘からず辛からずと
なして、その下りしままの樽より飲みて格別あることを賞玩す」

当時評判の伊丹、池田の清酒のうち、満願寺や猪名寺と比べても、鴻池が格別うまい、という意味である。

新六は思い切って、一升二百文という値段を付けた。並の酒の倍である。
それでも人々は争ってこれを求めた。

客層は身分の高い武士が多かった。
少々値段が高くても、品質の良いものには金を惜しまない、という考えの人たちだ。

人力で運ぶのでは、とても間に合わなくなった。
そこでいろいろ工夫をした末、酒四斗を一樽とし、二樽を一駄(いちだ)として馬に積むようになった。

そして江戸に着くと、あちらの家に二升、こちらのお得意様に三升、といった具合に配達をしていった。

このお得意様たちの中には、大名も数多くいた。
それが後に、また別の事業へとつながっていくのだが、その話は次回に譲りたい。