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第二話 「大胆なるイノベーション 鴻池新六(3)」

酒樽を積んだ荷駄が、鴻池村から江戸へ続々と出発していく。
最高の品質の清酒を大量生産することに成功した新六は、それを江戸に回送して巨万の富を得た。

当時の書物には、酒一升を二百文で売る一方、木賃宿を利用して江戸への往復が三百五十文ほどですんだ
とある。おそらく、これは一人当たりの旅費だろう。

ここで試算をしてみる。馬一頭あたり四斗樽二つを積んだ。一斗は十升だから、合計八十升だ。
それを一升あたり二百文で売ったから、売上は一駄あたり一万六千文(銭十六貫文)になる。

これ以外に酒の製造原価や馬の経費も計算にいれねばならないが、ともかく凄まじく儲かったことは間違いな
い。

灘が銘酒の産地として台頭してくるのは、もう少しのちの時代のことだ。
鴻池はこの時点で、当時の酒造業界のトップに立ったのである。
武士を捨てて、腕一本で世を渡り天下を取る、という元服の時の決心はついに実現した。
だが新六は、この成功で満足するような男ではなかった。

「大坂に出るぞ。日本全国を相手に商売をするには、大坂に出ないとダメだ」

確かに、本拠地が伊丹の鴻池村では、何かと不便になっていた。

新六はまず手始めに、次男と三男を大坂に送り、酒の醸造を始めさせた。
それに続いて新六自身も大坂に乗り込み、内久宝寺町(うちきゅうほうじまち)に店舗を構えた。

次男と三男はのちに分家し、鴻池村と合わせて四家で酒造を行う体制になった。
鴻池村で醸造する酒を「相生(あいおい)」、大坂で醸造するものは「清水(しみず)」といった。

新六は内久宝寺町の店舗で全体の指揮を取り、販路の拡大に努めた。
全盛期には、四家を合わせて年間十万石もの酒を醸造した。

そのため、荷駄でも間に合わず、酒樽を船に積んで江戸に回送するようになった。
最初は兵庫の北風彦太郎と組んでいたが、海運業が有望なことを知った新六は、自らこれを行う決心をした。

この時、新六はすでに五十代の半ばを過ぎていた。当時の感覚では老人といっていい。
旺盛な事業欲に衰えはなかったが、さすがに年齢を感じることが多くなった。

「父上、私にお任せください」

そう言ったのは、八男の善右衛門正成(ぜんえもんまさなり)だった。

彼はまだ十八歳だったが、すでに人並み外れて身長が高く、大力の持ち主だった。
しかも思慮深く、人を統率する力を持っていた。

新六はこの正成に実務を任せて前面に出し、自分は後見役に回ることにした。

事業は順調だった。鴻池村と大阪で醸造した酒が次々と樽に詰められ、船に満載された。
帰り船には、江戸で多くの物資を積み込んだ。

そのほとんどが、諸大名から輸送を託された年貢米や各地の物産だった。
新六が若い時代に自ら江戸まで酒を運び、一軒一軒売り歩いて築いた人脈が、ここで生きたのだ。

やがて新六はそれらの大名から、資金の融通も頼まれるようになった。
その担保には、大阪に回送される年貢米をとった。

鴻池が本格的に大名貸を始めるのは、これよりかなり後だが、新六の時代にすでにそのきざしはあったのだ。

彼の偉大さは、一つの成功に満足せず、それを手掛かりとして次々と新しい事業に進出していった点にある。
まさに事業家たるべく生まれてきた男だった。

ともあれ、さすがの新六も老いた。彼は八男二女に恵まれたが、そのうち主な人物では、前述の次男と三男が
大坂で分家しており、七男は鴻池村の本家を継いだ。

大坂の本店を継いで、新六の事業上の後継者になったのは、八男の正成である。

彼の代から鴻池家の当主は善右衛門を名乗るようになった。
そのため、正成を初代鴻池善右衛門と呼び、新六のことは始祖(しそ)という。

新六が数ある兄弟の中で、あえてこの八男を後継者にしたのは、よほどその人物を見込んでのことだった。

正成の娘婿の回想によると、正成の性格は篤実で慈愛に富み、生涯質素倹約に努め、芝居を観たり茶屋酒を
飲んだりすることは生涯一度もなかった、と記している。

まさに理想的な後継者だった。彼は父の遺した事業を大きく発展させた。

まず海運業では、淀川下流の九条島を根拠地として全国の物産の運送を始めた。
この島はもともとの砂州を開発したもので、大坂町内の大小の運河と通じ、かつ外海に出るのにも便利だった。

さらに正成は金融に目を付けた。両替商である。
当時は江戸では金、上方では銀が主に流通しており、庶民は銭を利用していた。
そのため大坂と江戸の間で物の売買をする場合、金と銀の両替が必要になってくる。

また上方では、信用取引が盛んだった。
両替屋は利用者から無利子で現金を預かり、預金者には振出手形を交付した。
その手形は両替屋でいつでも現金と交換してもらえるので、兌換券(だかんけん)同様に流通した。
これを遠隔地間の取引に応用したのが為替である。

正成は、当時大坂最大の両替商と言われた天王寺屋五兵衛(てんのうじやごへえ)の協力を得て、本格的に
金融業を開始した。

そしてそれにあたり、ある大きな決心をした。これが後の鴻池の運命に大きな影響を与えることになる。