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第二話 「大胆なるイノベーション 鴻池新六(5)」

新六、正成の二代が築いた鴻池の土台を、宗利は大きく発展させた。

宗利が実質的に家督を受け継いだ元禄七(一六九四)年に、鴻池家の所有する現銀は七千八百貫だったが、
その二十年後には三万三千貫にまで増えている。

両替商と大名貸だけでなく、海運業でも百艘以上の船を所有して順調に利益を上げていた。
そこにさらに、鴻池新田の開発による地代収入が加わった。

また彼は鴻池の本宅を、始祖新六以来の内久宝寺町から今橋に移し、大幅に拡張した。
いわば本社機能の拡充を行ったのだ。

その宗利が最後に取り組んだのが、家訓の制定だった。

江戸時代の富商で、家訓を制定している家は多い。
それは子孫のために残す経営哲学であり、自家のアイデンティティーだった。

宗利は、家訓の制定に十六年を費やした。晩年の一大事業だった。

この当時鴻池は、本家の他に分家五家、別家二十二家、合計二十七家を抱えていた。

分家は血縁関係のある一族、別家は子飼いの番頭が独立したものだったが、これだけの企業集団をまとめて
いくためには、明確な拠り所が必要だった。

宗利の定めた家訓は、経営上の大きな方針に加え、奉公人に対する実務的な指示、生活面での注意など、
非常に幅が広い。その主なものを見ていきたい。

まず家訓の第一条は、本家の相続人の素行が悪かった場合、一族相談の上これを追放し、別の相続人を
立てよ、というものだ。分家・別家の相続や、支配人の選任に当たっても同じだった。

これはもちろん事業を守るためだが、その背後には、鴻池の事業は当主個人の所有物でない、という意識が
あった。

鴻池に限らず当時の大坂の大店(おおだな)では、店と奥、つまり事業会計と当主の家計とを明確に分けるこ
とが一般的だった。現代の法人に近い意識が芽生えていたのだ。

そして一門一家には、酒色や遊楽にふけることを厳重に禁じた。
淀屋のような取り潰しの口実を与えないためと、取引先と情実の関係になることを避けるためだった。

新規の大名貸も、原則禁止した。信用のできない相手と取引して焦げ付くリスクを避けるためだ。
一方従来の取引先には、以前と変わらぬ付き合いをするよう求めた。

それ以外では、店の運営については独断を避けて合議制とし、本家と別家の手代同士が内密に打ち合わせを
したり、金銭の貸借をしたりすることを禁じた。

また従業員には学問を奨励し、現代のボーナスに当たる褒美銀(ほうびぎん)の制度をもうけ、人材育成にも
力を注いだ。

家訓が完成した時、宗利は六十六歳だった。すでに家督は、長男の宗貞(むねさだ)に譲っている。
宗貞の時代に、鴻池は海運業からも撤退し、業務を両替商一本に絞った。

これ以降の鴻池家の当主は、ひたすら宗利の定めた家訓を守り、堅実経営をした。
取り立ててすぐれた人物は出なかったが、家産を傾けるような愚劣な人物も現れなかった。

そうして、幕末を迎える。

鴻池は近藤勇の求めに応じ巨額の献金をするなど、新選組に協力を惜しまなかった。
当時の京大坂の治安は新選組の手中に握られていたから、これは当然の配慮だった。

ところが維新によって世の中がひっくり返った。ここから鴻池の誤算と迷走が始まる。

明治新政府の金庫には金がなかった。そのため三岡八郎が大坂に来た。
坂本龍馬の親友で、のちに由利公正(ゆりきみまさ)と名乗った人物である。

三岡は宿舎に大坂の豪商十五名を呼びつけ、三百万両(約千八百億円)の献金を命じた。

常識外れの金額だが、天皇の威光と武力を背景にした要求を、拒むことはできなかった。
豪商たちは金蔵の底をさらうようにして、金をねん出した。

さらにその翌年、鴻池に九万両の御用金が命じられた。
そのうち即納できたのは三万両だったというから、さすがの鴻池も余力が尽きていた。

そこへとどめを刺したのが、廃藩置県だった。
それはこれまでの巨額の大名貸の債権が、すべて紙切れになったことを意味した。

鴻池に代わって、新時代の先頭に立ったのは、三井、三菱、住友といった大財閥だった。
そのうち三井と住友は、江戸時代から続く豪商だ。

その意味では鴻池にもチャンスがなかったわけではない。
だが、近代化を推進するだけの人材に恵まれなかった。

いや正確には、かつての鴻池の特長だった、時代の変化に合わせ自らを大胆に変革するエネルギーが失われ
てしまっていたのだ。

こうして日本最大の豪商とうたわれた鴻池は、時代の波に飲み込まれていった。

東大阪市に、JR学研都市線の鴻池新田、という小さな駅がある。

前のささやかな商店街を抜け、歩いて五分ほどの場所に「史跡・鴻池新田会所」がある。
かつての新田経営の中心地だ。

だが、その一帯に広がっていたという田畑は、もはや跡形もない。

戦後の農地解放によって、鴻池は手塩にかけた新田の土地をすべて失ってしまった。
そして高度経済成長時代に田畑は住宅地となり、新田は大阪のベッドタウンとなった。

それでも街を散策すると、あちこちに「鴻池」という名を冠した看板を眼にする。
それはまるで、新六をはじめとする鴻池の男たちが、時代に刻んだ爪あとのように思えた。

(終)