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第三話「義を先にし、利を後にせよ 下村彦右衛門(2)」

正啓の行商時代は、十年近く続いた。いつ果てるとも知らない、苦闘の日々だった。
私生活も順調とは言えなかった。
二十三歳の時に妻を娶(めと)り、一男をもうけたが、五年後に離婚している。

だがそんな中でも、正啓は、自分がこのまま終わる男だとは思っていなかった。

伏見街道を京都に向かう途中、東山に滝尾神社がある。
正啓はどんなに忙しい時でも、またどんなに疲れていても、この神社へのお参りを欠かしたことがなかった。

清水で丁寧にうがいと手洗いをすまし、神前に額づいた。

「お願いです、いつか、千人の人間を使うほどの男になりたいのです。この願いを叶えていただけるのなら、
必ず神恩に報います」

並の男ならば、ひたすら日々の商売の繁盛を祈るだろう。
せいぜい、いつか自分の店を持ちたい、というところだ。

ところが、正啓の願いはスケールが違った。そして、それを実現するために、日々の努力も欠かさなかった。
のちに大丸が成功を収めた時、正啓は約束通り滝尾神社に多額の寄進をし、神殿を改修している。

さて、正啓の容貌はいささか変わっていた。
彼は背が非常に低く、その割に頭が大きくて、しかも耳たぶが長く垂れていた。
子どもの頃はそのためにからかわれることが多かったが、決して腹を立てず、いつもにこにこと笑っていたと
いう。

もちろん正啓とて人の子だから、自分の容貌にコンプレックスを感じたこともあったはずだ。
しかし長じてからの彼は、それを逆手に取った。

現代でもそうだが、営業マンとして成功するには、まず顔と名前を覚えてもらわねばならない。
彼の独特の風貌は、その意味で、営業上の大きな武器となった。

コツコツと毎日行商に通ううちに、顔を覚えてもらえるようになり、そのうち、古着は大文字屋さんでないと
だめだ、と言ってくれるお得意さんが増えていったのだ。

後年のことだが、大丸は「福助人形」というキャラクターを店舗に置いた。
裃(かみしも)をまとい、白扇を持ってにこやかに端座する像で、縁起物として大いに人気を博した。
そのモデルは正啓自身だったと言われている。

長い苦労がようやく報われ、伏見に小さな店舗を構えたのが、享保二(一七一七)年のことで、正啓はもはや
数えで三十歳になっていた。

屋号こそまだ大文字屋だったが、大丸社史はこの年をもって、大丸創業の年としている。
それはこの店が親から受け継いだものではなく、正啓が自らの努力で築いたものだからだろう。

伏見の店舗は、古着と呉服の卸を兼ねていた。
呉服とは、明治時代頃になると、綿布絹布(けんぷ)問わず衣類一般の総称になるが、
この頃は純然たる絹物の衣類を指していた。
つまり、以前に比べて利幅の大きい高級品を扱うようになっていたのである。

ついに念願の店持(たなもち)商人になった正啓だったが、ここで満足する男ではなかった。

彼は以前と変わらず、毎日三里の道を京都へ通った。
ただし今度は、京都市中の問屋を回って、商品を仕入れるためである。
そうして集めた質の良い商品を伏見の店舗で販売したので、店は数年もたたないうちに繁盛した。

この頃には、末弟の久右衛門正竹が成人しており、店の留守を任せることが出来るようになっていた。
また新しく雇った手代の大橋弥兵衛も有能な人物で、よく正啓に仕えた。

このような態勢が整ってくると、正啓は安心して「攻めの営業」に専念できるようになった。
彼は京都近郊だけでなく、遠く伊勢(三重県)、丹波(京都府・兵庫県)までも出かけて、商いに精を出した。

そういった中で、正啓は名古屋が商圏として有望だと考え、手代の大橋弥兵衛を派遣して視察させた。
名古屋は上方と江戸を結ぶ交通の要衝であり、御三家の尾張徳川家が治め政治的にも安定している。

この少し後に徳川宗春(むねはる)が藩主となり、将軍徳川吉宗の享保(きょうほう)の改革に対抗する規制
緩和政策をとって、名古屋の町は大いに繁栄するのだが、正啓はその前から名古屋に着眼していたのである。

そして名古屋に着目したのは、ある雄大なプランの一環だった。

滝尾神社での若き日の誓いを、正啓は忘れていなかった。
「将来、千人の長たる男になる」という夢を現実にするために、具体的にどうすればいいのか。

正啓の脳裏には、四都戦略ともいうべき、壮大な計画が浮かんでいた。