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第三話「義を先にし、利を後にせよ 下村彦右衛門(3)」

「千人の長たる男」になるにはどうしたらいいのか」

そのためには、一店舗や二店舗の成功に甘んじていてはいけない。
日本の主要都市のすべてを制する必要がある。正啓はそう考えた。

ちなみに、当時の商人の成功像は、「江戸店持京商人(えどたなもちきょうしょうにん)」と呼ばれるものであった。

つまり、本店は文化と伝統の中心である京都に置き、政治の中心であり百万の人口を誇る江戸に支店を
置いて儲けるのが理想だったのだ。

正啓はそれに加えて、天下の台所と呼ばれた商都、大坂での成功が必要だと考えた。
さらに、江戸を直接攻めるのではなく、その前に名古屋を制することを考えた。

このように大坂、京都、名古屋、江戸の四都で、第一頭の成功を収めるというヴィジョンを描き、
正啓はその実現に邁進(まいしん)していった。

当面の目標は、大坂だった。
だが大坂の敷居は高く、ようやく実現したのは、伏見創業から九年後のことだった。

場所は心斎橋から一町(約百十メートル)ばかり南の木挽北ノ町西側。
間口一間(百八十センチ)、奥行二間の小さな借家だった。これが後の大丸心斎橋店である。

もともとこの店は松屋清兵衛のものだったが、事情があって松屋が手放すことにしたので、
友人の八文字屋甚右衛門と共同出資したのだ。正啓にはまだ単独で出店するだけの資力はなかった。

甚右衛門の弟の善兵衛と、正啓の弟の正竹が支配人として常駐することになった。
正竹はこの頃には、正啓の右腕になっていた。

この店を始めるにあたり、正啓には野心があった。

「実はな、越後屋が江戸でやったことを、大坂で試してみたいのだ」

正啓は弟にそう打ち明けた。

それまでの呉服屋は、お得意様の屋敷を訪問して注文を取り、支払いは半年ごとの掛売というのが
一般的だった。そして売値には、訪問の手間賃と半年の金利分が上乗せされていた。

それを店頭での現金売りに改めることで、大幅に安い価格を実現したのが、越後屋を始めた三井高俊だった。

三井の商法は庶民からは圧倒的な支持を得たが、同業者からは執拗な中傷や妨害を受けた。
また、呉服は高いからこそ価値がある、と考えている一部顧客の評判も、必ずしも良くなかった。

それを大坂でやろうとしたのは、正啓の進取の気質だったが、慎重な正竹はしばらく考え込んでしまった。

「三井の二番煎じが、大坂で通用するでしょうか」

その瞬間、正啓は声を励まして力強く言った。

「物まねでもいいではないか。良い商品を安く売れば、お客様に喜んでいただける。それが第一だ」

そしてその後、正啓は少し声を落とした。

「それに、現銀商売でまわすことができれば、資金繰りが楽になる」

その一言で、正竹には兄の算段が腑に落ちた。

これまでの掛売だと、いくら商品を売っても半年間は売上が入らない。
新興で資金力のない大文字屋には、これは正直痛い。

その点現銀売りだと、日銭が入るので、それを仕入れにまわすことができる。商売の回転が速くなるのだ。

「分かりました。やりましょう」

上方で初めての試みであり、高級品である呉服を、わざわざ店頭まで出向いて現銀買いする客がいるものか、
と同業者は冷笑した。

だが、フタを開けてみると、これが大変な評判を呼んだ。
最初は外商も並行して行うつもりだったが、とてもそんな余裕はない。
開店早々大入りが続き、あわてて丁稚、手代を増員しなければならなかった。

もともと大坂という土地柄は、品質が良くて安い品物には敏感である。
店頭売りで小口の客の需要にも応えたことから、これまで高級品に縁のなかった客層を、新たに掘り起こす
ことになったのである。

売上は増大し、一年後には店舗を正式に買い取り、大文字屋(正啓)の名義に直すまでになった。

だが、そんな矢先に問題が持ち上がった。