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第三話「義を先にし、利を後にせよ 下村彦右衛門(5)」

大坂と名古屋での成功で、大丸はすでに大店(おおだな)に成長していた。
しかし正啓の胸には、ただ利益を追い求める生き方への疑問が芽生え始めていた。

そんな折、岳父の平野屋宗拙(ひらのやそうせつ)がやって来た。

正啓は先妻と離婚した後、京都の油屋平野屋の娘、政(まさ)と結婚していた。
政は家業を助け、先妻の幼子を育て、病気がちの義兄の一家の面倒まで見ていた。
また岳父の宗拙も正啓の人物を見込み、大いに後援していた。

「竺庵(ちくあん)禅師が万福寺にいらっしゃる。一緒に座禅に行きませんか」

竺庵は中国浙江省生まれの高僧で、来日して万福寺に入り黄檗宗第十三代を継承しており、
その名声は正啓も耳にしていた。
正啓も神仏への尊敬の厚い人で、若き日には滝尾神社に通い、最近では南禅寺や大徳寺にも通っていた。

宗拙とともに万福寺を訪れ、竺庵を一目みた時、「これは人物だ」と思った。
言葉ではなく存在そのもので、生き方を示してくれる人物だった。

以後、正啓は竺庵に師事し、万福寺に参禅に通うようになった。
座禅に没頭する中で、何のために商いをするのかという命題に対し、答えが固まっていった。

商人が西から東、北から南と商品を売り買いするのは、天下万民の役に立つためだ。
必要な商品を、必要な場所に届けたお礼として、利益を取ることを許されているのだ。
利益そのものが、商売の目的ではない。

正啓がその悟りを竺庵に話すと、竺庵は深々とうなずき、筆をとって四文字を記した。

先義後利。

荀子の「義を先にし、利を後にする者は栄える」という言葉から取ったものだった。

義とはこの場合、人としての道、という意味だろう。
それを優先する者が、商売においても結局は栄えるというのだ。

正啓は自ら筆をとってこの言葉を掛軸にし、全店舗に配布した。

もはや正啓には迷いはなかった。念願の江戸進出に向けて着々と布石を打っていった。

まず京都東洞院に、卸と小売りをかねた総本店を構えた。
間口三十八間(約七十二メートル)、面積は二千坪という広大なもので、西本願寺よりも大きいと噂された。

次に、よく目立つ萌黄地に大丸の商標を染め抜いた大風呂敷を大量に作らせ、
江戸の取引先に送る荷物の中に大量に入れた。もちろん無料である。

相手方ではその風呂敷を重宝し、小僧が荷物を運ぶ時などに使った。
また、たくさんあるので、知り合いに配ったりもした。
数年のうちに江戸中に大丸の風呂敷があふれ、大丸の名を知らぬ者はないほどになった。

このような下準備を済ませたのち、寛保三(一七四三)年、満を持して大伝馬町に江戸店を開いた。
その時、正啓はすでに五十代半ばを過ぎていた。

「江戸へは私が参ります」と、息子の正甫が言った。
彼は幼い頃から、父親が苦労して店を育て上げるのを見ており、この頃には練達の商人(あきんど)に育っていた。

当時の江戸の呉服屋は、越後屋三井店をはじめ主要四家が牛耳っていたが、正甫の手腕は確かで、
大丸はわずかの間に彼らと肩を並べる大呉服店となった。

ここに四都戦略は成就した。正啓は一代で、大丸を日本でも有数の呉服屋に育て上げたのである。
だが正啓にはその達成感よりも、「先義後利」という経営哲学に達した喜びの方が深かった。

その同じ年、正啓は家督を正甫に譲り隠居した。没したのは、その四年後である。

晩年の正啓は、社会奉仕事業に尽くすところが厚かった。
尊敬する竺庵禅師は言うに及ばず、青年時代に行商の行きかえりに参拝した滝尾神社にも、多くの寄進をした。

また歳末には貧民救済の施行(せぎょう)を行った。
正啓自ら京都の下町に出かけていって、寒空にふるえる人に暖かい衣服や銭などを与えた。

正啓の没後も、この習慣は絶えることなく続いた。
多い年にはこの施行に、銀五十三貫(約七千万円)を費やしたという。

こういった積み重ねは店の徳となり、正啓の死後も連綿として伝わっていった。

幕末も近い天保八(一八三六)年二月、大坂の町が戦火に包まれた。
大坂町奉行所の元与力(もとよりき)大塩平八郎が、民の窮状を見かねて兵を挙げたのだ。

その前年に起こった天保の大飢饉のため、大坂でも米が不足し、餓死者が出るほどだった。
ところがそんな状況にもかかわらず、豪商たちは利ザヤ目当てに米を買い占め、町奉行所は点数稼ぎのため
に、大坂の米を江戸に送ろうとしていた。

陽明学者でもあった大塩は、正しいと信じたことは万難を排しても貫かねばならない、と考えていた。
大塩が立ち上がった時、一行は門弟たちわずか数十人だった。
ところが「救民」と書いた旗を掲げ、豪商を襲って奪った蔵の米や金銀をその場で貧民たちに配るうちに、
人数は膨れ上がって三百人になった。

鴻池、三井、天王寺屋など大坂で名だたる豪商たちの邸宅が、次々に襲われ、火を放たれた。
やがて一行は、心斎橋筋にある大丸の店舗の前まで来た。

「大丸は俺たち貧しい者の味方だ」

「そうだ、俺たちの敵は、弱い者いじめの大商人だ」

口々にそんな声が上がった。やがて大塩が重々しくうなずいた。

「大丸は義商だ。犯してはならぬ」

大塩平八郎の乱は結局、わずか一日で幕府方に鎮圧されてしまうのだが、
この義挙によって彼の名は大坂で伝説となった。

そして大丸も、幾多の星霜にたえながら、心斎橋の地でいまも営業を続けている。

(終)