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第一話 「中之島を作った男 淀屋常安(2)」

時代は激しく動いている。あれだけ盤石に見えた豊臣政権は、秀吉の死とともにあっけなく崩壊した。
秀吉の実子秀頼はまだ幼く、政権を担う能力がなかった。
その機会を巧みに利用した徳川家康は、関ヶ原の戦いで勝利すると、征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を
開いた。豊臣家はもはや、摂津、河内、和泉の三ヶ国の領主に過ぎなかった。

ところが大阪の商人たちの動きは鈍かった。
政治の中心が江戸に移ったとはいえ、文化面でも経済面でも上方の方がはるかに先進地帯だった。
その上大阪には、太閤秀吉の遺した難攻不落の大阪城と莫大な金銀がある。
秀頼が成人し、家康が没すれば、天下はまだどちらに転ぶか分からない、と見る向きもあった。

もっともそれは、家康の方も百も承知だった。
彼は自分の生涯の仕事の仕上げとして、目障りな豊臣家を断固として取りつぶす決心をしていた。
家康は豊臣家にむりやり因縁を付け、開戦に踏み切った。いわゆる大阪の陣冬の陣と夏の陣である。

常安は天下の形成をじっと観察していた。秀頼と家康では、器が違い過ぎた。
豊臣家恩顧の大名で大阪方に味方する者は一人もなく、金銀で召し抱えた牢人衆が頼りという有様だった。
常安の周囲の商人たちには、戦さが終わってから勝った方に付けばいい、と考えているものが多かった。
しかし常安は、それでは遅い、と思った。

常安は、家康が茶臼山に着陣するなり、挨拶に訪れた。
そしてまだ陣屋の普請が行き届いていないのを見てと、自らの手で立派な陣小屋を建てて家康に献上した。
家康はそれを喜んだ。常安ほどの男が自分の陣営にはせ参じたことの影響力を知っていたからだ。
徳川方の大軍に対して豊臣方もよく戦った。しかし所詮、勝ち目のない戦さだった。
冬の陣の和議の後、家康の計略にかかり内堀を埋め立てられた後は、もはやなす術はなかった。
夏の陣によって、豊臣氏は滅亡した。

常安はこの時、戦死者の遺体を埋葬するとともに、あちこちに討ち捨てられていた鎧兜、刀剣、馬具などを
拾い集めて修理し、売りさばいた。これによって莫大な富を得たという者もいるが、それは当たらないだろう。
引き取り手のない戦死者の埋葬は全て自腹だったからだ。
むしろ人の嫌がる仕事を黙々とこなした点に、真骨頂があった。

やがて戦後の論功行賞があった。常安は家康に召し出され、岡本三郎右衛門と名乗ることを許され、生国で
ある山城八幡で三百石の山林と田地を下賜(かし)された。これは武士としての待遇を認める、ということだった。
武士を捨て、一度は商人として生きる決意をした常安にとって、これはいささか面映ゆくもあった。

「なお、なにか望みのものはないか。あれば言うがよい」
天下統一を果たした家康は上機嫌だった。

「それではお言葉に甘えて申し上げます。ただいま大阪に集まる干物は、品質も価格もまちまちなものを、
業者がてんで勝手に持ち込んで販売いたしておりますゆえ、たいそう不自由でございます。そこでわたくしに、
干物の価格を定める権限と、それにともなう運上銀をいただきとう存じます」
家康はあっさりとそれを許した。
三河の田舎に生まれた彼は元来商業的な思考にうとく、この時も、たかが干物か、と思っただけであった。

ところがこれは、想像以上の絶大な権限を意味していた。
常安が望んだことは、市場で一商人として売買することではなく、市場そのものを所有することだった。
現代で言えば、株式市場に上場するのではなく、自ら株式市場を創設するようなものだった。
恐るべき先見の明と発想力と言わねばならない。
干物についてその権限を得たことは、常安の野望の第一歩に過ぎなかった。

のちに常安は、米についても、自分一手で相場を立てる権限を願い出て、許されている。
のちの堂島の米相場はここに始まるとされている。
常安の自宅のすぐ前で米相場が立てられ、そこで決まった金額が市場価格となった。
これがのちのち、淀屋に巨大な利得を生み出すことになる。

また交易も盛んに行った。往き船に塩を積んでいくと三倍の価格で売れ、戻り船に干鰯を買って帰ると
それでも大儲け、といったあんばいだった。
金銀はたちまち蔵に満ち溢れ、そのための毎年新たな蔵を建てねばならないほどだった。
この様子を古書は、「銀の子をうむ事鼠算の如し」と伝えている。

しかしそれだけ富貴を極めても、常安の日常生活は質素だった。
故郷を追われて大和に隠れ住んだ日々や、創業の頃の苦労を忘れていなかったのだろう。

常安晩年の大事業に、中之島の開発がある。
この頃すでに息子の言当(げんとう)が成人しており、実質的に淀屋の事業を切り回していた。

当時の中之島は大阪の北の外れにある、ヨシの生い茂る砂州に過ぎなかった。
しかしその広大さが、常安の目を引いた。

「あそこに堤を作って土を盛れば、人が住める土地になろう」
淀川河口の湿地帯に位置する大阪には、良い土地が少なかった。

「さて、少々のことでは、大雨が降ればたちまち浸水しますぞ。いったいどれだけの土を盛ればよいのか……。
これは道楽仕事ですな」言当はいい顔をしなかった。
彼の頭は、現実の淀屋の商売をどうするかで一杯だった。
「さよう、隠居の道楽仕事じゃ」
常安は穏やかに笑った。
この土地の開拓を願い出て許されると、これまで蓄えた金銀を惜しげもなく注ぎ込んだ。
遊びらしい遊びもせず生涯を事業に捧げた常安にとって、損得を考えずに打ち込める仕事は、唯一の息抜きと
言えたのだろう。

常安の開拓した土地は常安町と呼ばれた。現在の中之島四丁目から六丁目界隈である。
土佐堀から中之島に渡る橋は、常安橋という。
今では周囲にビルが立ち並び、ひっきりなしに自動車が行きかっている。
往時とは周囲の景色がまったく変わってしまったが、この橋の名は今でも残っている。