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第一話 「中之島を作った男 淀屋常安(3)」

江戸時代に創業し、現代でもトップを走り続けている企業は意外と多い。
旧財閥系で言えば、三井と住友がその代表格だ。
その一方で、一時は隆盛を極めながら、時代の流れに飲み込まれたものもある。
淀屋のその後の運命はどうなったのか、たどってみよう。

常安には三男二女がいたが、長男は養子であったため、実子である次男の言当(げんとう)が後を継いだ。
この人物もなかなかの器量であったらしく、父親から受け継いだ事業をさらに発展させ、淀屋のビジネスモデル
を完成させた。
彼の業績は多岐にわたるが、中でも特筆すべきは、蔵元(くらもと)の第一号となったことだった。

言当の時代は幕藩体制が確立し、大阪が天下の台所としての地位を固めた時代であった。
全国の諸大名の領地から大量の年貢米が大阪に回送され、諸藩の蔵屋敷に納められた。
それらは蔵役人によって問屋に販売されるのだが、相場の知識のない役人には売却の時期を見定めることは
難しく、やがて出入りの商人が代行するようになった。

その委託販売を最初に手掛けたのが淀屋だったわけだが、その次の段階として、いわゆる大名貸も始めて
いる。この時代、一代で豪商となった人物は、たいがい政商という側面を持っていた。
封建時代において大きな仕事を獲得するには、権力者と密着するのが最も早道であり、淀屋初代の常安も
そうだった。

その意味で、言当が政商への道を歩んでいくのも自然なことではあった。
たが土木・建築事業を請け負うことと、大名貸のような金融業とは本質的な違いがあった。
もっともそれがリスクとして表面化するのは、もう少し先のことである。
ここでは順を追って、なおも言当の業績を追っていこう。

まず、大阪への糸割符(いとわっぷ)割当の獲得。
江戸時代初期は国内産生糸の生産がまだ活発でなく、海外から多くの生糸を輸入していた。
その生糸は、堺、京都、長崎の商人に独占的買取販売権が与えられて多くの利益をもたらしたが、
そこに江戸商人も加わることになった。
この時言当は大阪の総年寄という立場であり、中心になって運動して、大阪のために糸割符の株を獲得する
ことに成功した。

また父親とも関係があった天満の塩魚問屋鳥羽屋彦七と組んで、津村の開発を行っている。
その結果、新靭町、新天満町ができた。これは現在の靭公園の一帯に当たる。
公園内には「靭海産物市場跡(うつぼかいさんぶつしじょうあと)」という石碑が立ち、往時をしのばせている。

青物市場も、言当の時代には、京橋南詰の淀屋所有の土地で開かれていた。
この土地がのちに大坂町奉行所に公収されたために、市場は京橋片原町に移転した。
そこからさらに天満に移り、有名な天満青物市場に発展していくのである。

土佐堀川に淀屋橋を架けたのも、言当である。淀屋の米市場への交通の便を図るためだった。
堂島に移るまでの間、淀屋橋の南詰で米市場が立っていた。

この頃には淀屋の営業規模もふくれあがり、住居と店舗を合わせて百間四方、敷地は二万坪という広大さ。
そこで手代三十四人と百七十人の従業員が働いていた。

言当には男子がいなかったので、甥の箇斎(かさい)を、言当の長女の富士と結婚させて、後を継がせた。
ところが三代目の箇斎は、言当没後わずか数年で後を追ってしまう。
そこでまだ十代の少年だった箇斎の息子の重当(じゅうとう)を四代目とし、母親の富士が後見した。

淀屋の基盤は揺るがなかった。いや、むしろ商売は順調に伸びていた。
母の富士や言当以来の子飼いの番頭や手代たちの、補佐のためもあるだろうが、常安、言当の二代で確立し
たビジネスモデルが機能していたためだった。全国から大阪に回送される年貢米の輸送、管理、販売を握って
いるのである。またこの頃には大名貸が盛んになり、西国の大名で淀屋にカネを借りない者はいない、とまで
言われた。

重当は半世紀近く当主の座にあった。おそらくこの頃が、淀屋の全盛期だったのではないか。
だが母の富士が亡くなり、晩年になった頃から、重当は贅沢の味を覚えるようになる。
花柳界に入りびたりになり、カネにあかせて豪勢な邸宅を建築した。

大小の書院にはそれぞれ金張りの上、四季の草花模様を描いた金襖(きんぶすま)が用いられた。
広大な庭園には泉水を造り橋を渡し、唐や日本の珍しい樹木を植えた。
夏座敷という特別な部屋には、四方にガラスの格子を立て、天井もガラス張りにして中に清水を流して金魚を
飼い、寝転びながら金魚が泳ぐ様子が眺められるようにしたという。

こうして、さしもの淀屋の繁栄にも陰りが見え始める。重当の没後、息子の広当(こうとう)が五代目を継いだ。
この男が一般に、淀屋辰五郎、と呼ばれている人物らしい。

宝永二(一七〇五)年、淀屋は幕府から「町人の分際で贅沢が目に余る」として、闕所(けっしょ)処分を受けた。
取り潰しの上、家屋敷ふくめ財産をすべて没収である。
この時没収された財産は、現金だけで金十二万両、銀十二万五千貫に及んだ。
さらに全国の諸大名への貸付総額が銀一億貫にのぼっていたという。

相場や物価は時代によって変遷するが、ざっくり言って銀一貫は金二十両、金一両は現代の十万円にあたる。
すると銀一億貫は二百兆円になる。
さすがに誇張か、少なくとも複利計算で膨れ上がった紙の上の数字だろう。
いずれにせよ、毎年の利子ですら払えるものではない。
逆に言えば、そこから淀屋が取り潰された真の理由が浮かび上がってくる。

この当時、貨幣経済の波が全国津々浦々に浸透していた。
米で徴収した年貢も換金しなければ役には立たない。そのカネの流れを押さえているのは商人だった。
しかし士農工商の身分制の下では、政治の実権と世俗的権威は武士の手中にあった。

このゆがみが如実に表れたのが、淀屋の事件だったのではないだろうか。
淀屋は巨額の債権によって、多くの大名の財政を握っていた。
淀屋に頭を下げねば、予算も組めない状況だったろう。
この時、封建的な権威が実質的に逆転してしまっていた。
そしてそれは将軍家の威光にもかかわることだった。だから、淀屋は潰されねばならなかったのだ。
幕府はそういう形で諸大名の借金を帳消しにし、救済したのである。

こうして淀屋は五代、百年余りで滅んだ。かつての繁栄はもはや影も形もない。
ただ、中之島は遺っている。
それが淀屋常安という男の、仕事の価値ということだろう。

(終)