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森信三 小伝A

昭和6年3月、森は京都帝大大学院を首席で卒業しました。
しかし、当時は昭和恐慌のまっ只中。「大学は出たけれど」などと言われた時代です。
母校に残ることができず、
院生時代のアルバイト先である天王寺師範と女子師範の専任教諭となりました。

失意の中で森は、担当の倫理の授業を、官製の教科書に頼らず独自に行う決意をしました。
後日問題が生じた時に備え、生徒にノートを取らせました。

この記録が、当時国語教育の第一人者芦田恵之助(えのすけ)に高く評価され、
              戦時中で用紙難の中、『修身教授録』として出版されました。

これをきっかけに、全国に森を師と仰ぐ教師のネットワークが形成されていくのです。
ちなみにこの書物は現在に至るまでも、隠れた名著として読み継がれています。

昭和14年、恩師の西晋一郎の推挙により、創立まもない満洲の建国大学の教授となりました。
これは大変な抜擢です。
建国大学は、石原莞爾の「アジア大学」構想に端を発した、異色で野心的な大学でした。
森は学生たちと寝食をともにし、教育に当たります。

ところが戦時色が濃くなるにつれ、学内でも軍人が幅を利かすようになります。
とくに、建大生が抗日運動に関わった事件の責任をとって副総長作田が辞任し、
後任に軍人が就いてから、建大は準軍事大学の様相を呈していきます。
作田派と見られていた森への風当たりは強いものでした。

そして終戦を迎えました。妻子とはぐれた森は、ソ連軍に拘留されますが、
通訳の白系ロシア人が元建大生だったおかげで危うく難を逃れます。
しかし帰国の当てもなく、教え子と真冬の奉天郊外をさすらいます。
そして生きる希望さえなくして、零下20度の空家に倒れこみます。

しかし、天は森を見捨てませんでした。
隣家の主人の助けにより、かろうじて生をつないだ森は、大道易者をしながら、
一日一食の粟粥をすすって生き延びます。
そして翌年6月にようやく故国の土を踏むのです。

学者にあらず
宗教家にあらず 
はたまた教育者にあらず 
ただ宿縁に導かれて 
国民教育者の友として
この世の「生」を終えむ

生還した森のたてた心願です。 しかし戦後の道のりも、決して平坦ではありませんでした。
作家 宮下隆二