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森信三 小伝B

内地に引き揚げた森は、はぐれていた妻子と再会します。教え子たちも次々集まってきました。
新生した森は、月刊誌『開顕』を創刊しました。
日本の再生は家庭教育から始めねばならないという強い思いによるものでした。
森のカリスマ性もあって、全国から3千部近い申し込みが殺到し、
続けて月刊『親と子』を出します。 が、好事魔多し。
その次の月刊『少年科学』が大失敗し、多額の借金を背負ってしまいます。

責任感の強い森はノイローゼ寸前になり、自殺まで考えたほどでした。
妻の実家でもある甲子園の家を売却し、
県立篠山農業大学の英語科講師の職を得て再出発します。
苦境の中でも読書会、研修会などを地道に続けました。
そして翌年、神戸大学教育学部教授に招聘されるのです。
神戸大学で森は、黙々と校内の紙くず拾いを続けました。
足元の紙くずを拾うという実践さえ出来ない人間に、人を教える資格はないと考えたからでした。

教育とは流れる水に文字を書くようなはかない仕事です。
しかしそれを、あたかも巌壁にのみで刻みつけるほどの厳粛さで
取り組まねばなりません。
教師がおのれ自身、あかあかと生命の火を燃やさずにいて、
どうして生徒の心に点火できますか。

将来の教師を目指す若者たちに、森が訴え続けた言葉です。
森は大学勤務の傍ら、著述と全国教育行脚をし、月刊『実践人』を創刊しました。
日常生活は質素で、玄米と菜食中心の食事。
講演旅行中も名所旧跡の見物は、自ら禁じていました。
昭和35年に神戸大を定年退職しますが、森の生命の火はさらに燃え上がります。
これを機に年間250日も教育行脚をし、さらに全集25巻の編集と執筆。
神戸海星女子学院大の教授も、17年勤めました。
晩年、妻文子、長男惟彦を相次いで失い、
それを契機に尼崎市内の陋屋に移り住み、独居自炊生活を始めます。ほとんど修行者です。

そこにも全国から同志や弟子が訪れ、「実践人の家」の活動は一つのうねりとなっていきます。
晩年には、東洋と西洋の哲学を統合した「全一学」を提唱します。
『森信三全集続編』8巻が刊行されたのは、なんと87歳の時です。
平成4年、96歳で森は永眠しますが、未だにその跡を慕う人が絶えません。

作家 宮下隆二