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賢治の生涯A

突然上京した賢治の応対をしたのは、国柱会の理事の高知尾知耀でした。
賢治は彼から、「法華文学」の創作を目指すという示唆を与えられました。
賢治の東京滞在は半年余りでしたが、昼は筆耕のアルバイト、夜は国柱会でボランティアという
生活の傍ら、旺盛な執筆意欲を示し数多くの童話を執筆しています。
対立していた父とも、関西旅行に同行することで和解をし、仕送りも素直に受けるようになりました。

しかしここで、思いかげない事件が起こります。
妹トシの発病です。
電報を受取った賢治は、急いで郷里に帰ります。
トシは、賢治の文学のよき理解者であっただけでなく、家族の中で唯一信仰を共にしていました。
この妹に対する思い入れは格別だったようで、
翌年トシが亡くなった時は、まるで恋人を亡くしたように嘆き悲しみます。
その悲しみは、「無声慟哭」他一連の美しい詩となって結実しますが、それだけではありません。
『銀河鉄道の夜』をはじめとする多くの作品に、この喪失感が反映されています。

帰郷した賢治は、地元の稗貫(花巻)農学校の教師となります。
この後4年余りの教師時代は、賢治の生涯で最も充実した時期でした。
賢治は、教師としては型破りでした。
生徒を連れて野山に出掛け、自ら「イギリス海岸」と名付けた北上川のほとりで化石採集をし、
自作の戯曲を生徒に上演させるなどもしています。
その様子は、生徒に物を教えるというより、
自分自身が率先して生徒たちと一緒に楽しんでいるかのようでした。

創作活動の方も盛んでした。
詩集『春と修羅』を自費出版し、童話集『注文の多い料理店』を光原から出版しました。
詩人の草野心平との交友が始まったのも、この頃のことです。
心平は、まだ無名だった賢治の才能を見抜き、
「世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている」と絶賛しました。
しかし、その評価の正しさが認められるのは、賢治の死後まで待たねばなりませんでした。

このように天職を見出し、多彩な活動を続けていた賢治にも、ひそかな悩みがありました。
それは土に生きる農民たちとのギャップです。
当時の農村は貧しく、賢治がいくら理想を語っても、良家のお坊ちゃんのたわ言くらいにしか
受取られませんでした。
賢治は、自分に正直に生きようとする余り、ある重大な決意をします。

作家 宮下隆二