「包装」を通じ、あらゆる産業に貢献します。
>>トップページ  >>>NEWS  >>TOPページ
 ・新商品情報
 ・エンゼルコフィン
 ・ほかんくん
 ・宮下隆二のコラムTOP
 ・津島稜の世相を斬るTOP
 ・News VoL.1〜VoL.20
 ・News VoL.21〜VoL.40
 ・最新のNews一覧
 

賢治の生涯B

賢治は農学校を依願退職し、自らも農民として土に生きる決心をしました。
三十歳の時のことです。
花巻町下根子桜の寓居で独居自炊し、昼は周囲の原野を開墾し、夜は創作活動に没頭するという
生活を始めました。

その傍ら、羅須地人協会の活動を開始しました。農学校時代の教え子を寓居に招き、
土壌学や植物学を教え、エスペラント語の講義やレコードコンサートなどを行いました。
これは賢治の理想とする、農村ユートピア運動の一環でした。

しかしそれは、必ずしも周囲に理解はされませんでした。
折しも、昭和恐慌の嵐が日本を直撃しており、農民たちの生活は苦しく悲惨なものでした。
眼の前の生活で手一杯の彼らにとって、賢治の説く理想社会は縁遠いものに思えたのでしょう。
賢治は収穫を増やし農民の生活を少しでも豊かにするために、
膨大な数の肥料設計を行い、嵐の夜は徹夜で田んぼを巡回しました。すべて奉仕です。

そんな生活が体に良いはずがありません。賢治はついに血を吐いて倒れます。
当時死病とされていた肺結核です。
父母の許に帰り一年余の療養の末、ようやく健康を回復した賢治は、
今度は東北砕石工場の技師となります。要するに、石灰肥料のセールスマンでした。
ここでも賢治はほとんど自己犠牲的なまでに仕事に没頭しますが、
無理がたたって、ついに東京出張中に高熱を発して倒れてしまいます。

病床にありながらも賢治は、肥料の相談に応じ、童話や詩作も続けます。
病状は一進一退でしたが、健康を完全に回復することはありませんでした。

昭和8年(1933年)9月、鳥谷ヶ崎神社祭礼の神輿を店先に下りて見物していて、体調を崩しました。
それにも関わらず、肥料設計の相談に来た農民に衣服を改め遅くまで応対してしまいます。
その直後喀血し、容態は急変しました。
賢治は、『国訳妙法蓮華経』一千部を印刷し知人に配るよう遺言して、永眠しました。37歳でした。

若くして世を去った賢治でしたが、その信仰と奉仕に生きた生涯と、
宝石のように美しい数々の作品は、今もなお多くの人の心を打ち続けています。

作家 宮下隆二