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第一章 わたくしという現象

その6

お前たちはだめだねえ。なぜ人のことをうらやましがるんだい。僕だってつらいことはいくらもあるんだい。お前たちにもいいことはたくさんあるんだい。僕は、自分のことは一向考えもしないで、ひとのことばかりうらやんだり馬鹿にしているやつらを、一番いやなんだぜ。僕たちの方ではね、自分を外(ほか)のものとくらべることが一番はずかしいことになっているんだ。

『風野又三郎』

この作品は、有名な『風の又三郎』の初期形です。
谷川の岸にある小さな小学校に転校してきた少年と、村の子どもたちとの、十日余りの交流を
描いた鮮烈な作品で、ご存知の方も多いでしょう。
風野又三郎というのは、岩手の伝承における風の精霊です。
子どもの姿をしていますが、時に嵐を引き起こすような激しさも持っています。

一般形では、転校してきたのは、又三郎を思わせますが、あくまで高田三郎という人間です。
ところが初期形では、ずばり、風野又三郎と名乗っています。
彼は突然教室に現れ、しかも先生にはその姿が見えません。
風の精霊である又三郎は、子どもたちとつかのまの交流を楽しみ、世界中の神秘的な話を語って
聞かせます。

それを羨んだ子どもたちを、又三郎が叱ったのがこの引用部分です。
これを、陳腐なお説教と理解してはいけないでしょう。
前回の詩では、雨、雲、水、林がすべてわたくしである、と賢治は言いました。
前々回では、「われらがひとしく、風でまた雲で水である」と竜が述べています。

その意味では、又三郎も村の子どもたちも、より大きな「わたくしたち」の一部だといっていいでしょう

このような人間観においては、嫉妬は無意味です。
わたしが、わたしを、羨んでも仕方がありません。
さりげない表現の背後に、賢治の広大な世界観がひそんでいる、という一つの例です。

作家 宮下隆二