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北の湖の通信簿はクラスで1番?

見習い記者の役目は読者からの電話の応対や、ゲラ刷りの確認など雑用がほとんどだったが、
出先の記者からの「原稿取り」には悩まされた。
現代のように携帯電話やメール送信はできなかったから、社外にいる記者は電話で原稿を送ってくる。
社会部に何台も並んでいる電話機を取らされるのはほとんどが新人記者で、受話器から聞こえる送稿者
の声を原稿用紙に書き起こす作業が「原稿取り」。
見習い記者の私もズラリと並ぶ電話器の前に座らされた。

新聞の1面の記事は15段(当時=現代は12〜13段)で構成されている。
今は1行12〜13字だが私の時代は1行15字で「文字が小さくて読みづらい」という苦情が多かったため
字のサイズが大きくなったわけだ。

それはともかく「原稿取り」は、3行(1行5字)のマス目が印刷されている小さなザラ半紙(A5版ぐらい)に
鉛筆で文字を書く作業だ。送稿してくるのは当然、先輩記者だから、原稿を取るのが遅いと「早よ取れ」
「お前、誰や」などと電話の向こうで怒鳴りあげるし、先輩記者の発音が悪かったり早口だったりするもの
だから、聞きづらい。新人いじめのようなもので、たまったものではない。

こんな前時代的な職場だったが、社外に出ての取材体験は、面白いことが多かった。

大阪の編集局には政治部はないが、社会部のほか経済、文化、運動部といった取材部門と写真部、
整理部、校閲部がある。整理部は紙面のレイアウトや記事の見出しを担当、校閲部は記事の誤りを
チェックするのが仕事で、社外へ出ることはない。

新人時代の体験講習は面白かった。経済部では証券取引所や企業の株主総会の見学、文化部では
人気タレントの記者会見、美術展の紹介など、高度な理論や知識などまったく不要な気楽な研修だった。
その中でも運動部の実習が思い出に残っている。

昭和49年(1974年)の初場所後に北の湖が大関に昇進。
そして大阪の春場所の前に、私は「新大関の談話を取材しろ」と先輩に命じられた。

運動部の相撲担当記者に「北の湖は八尾空港から大阪市内の支度部屋に入る」と教えられ、
私はカメラマンと二人で八尾空港へ向かった。運動部は私に記事を書かそうとは考えておらず、北の湖の
表情や動きを話してくれればいいという程度だっただろう。

空港の滑走路に近い空き地で待っていると、カメラマンが「おい、あれやろ」と声を上げた。
見るとヘリコプターが轟音とともに、その空き地へ舞い降りてきた。
ベテランのカメラマンは、この空き地(ヘリポート)に到着するのを知っていたようだ。

ローター(回転翼)が止まると和装の大男が裾を気にしながら降りてきた。
写真で見た通りの人なつっこい顔は北の湖、髷もまだ十分でない新大関だ。
カメラマンの前を笑顔で通り過ぎようとしたとき、私は思い切って声をかけた。

「新大関の意気込みは」
「春場所も優勝が目標ですか」
などとありきたりな質問を続けると、北の湖は「はい、はい」と頷いてくれた。

北海道有珠郡の田舎町で生まれ、中学時代は柔道と相撲で早くから注目を浴びていた巨体の少年だった
らしい。「何でもトップだったそうなので、勉強なんかしなくても将来に夢があったんでしょうね」と馬鹿げた
質問をすると、新大関はニヤリと笑って「僕の中学の成績は全部、これだよ」と私の前に人差し指を差し出
して見せた。「えっ、1番ですか」と私が驚くと「通信簿はオール1」。その時の彼の悪戯っぽい顔は19歳の
青年そのものだった。

私が、ヘリコプターから降りてきたときのあの笑顔の写真を先輩に見せ「春の足音がドスン、ドスンと聞こ
えてきた」という印象を表現した原稿を渡すと、先輩は、一瞬苦笑いをした。
私は(また馬鹿にされた)とガッカリしたが、翌日の社会面に「大きな春の足音」という見出しの写真入りの
記事。これも予想外の喜びだった。

こんな他愛のない経験がスタートだったが、それから約20年の記者生活の中で、私はほとんどを大阪の
警察、司法(裁判所・検察庁)を担当した。昭和の終焉まで、三菱銀行事件、オウム真理教事件、グリコ
森永事件、日航機墜落など多くの事件・事故現場を目の当たりにした。
次回からは、一事件記者の視線でそんな出来事の意外な一面を紹介させていただきたいと考えている。

作家 津島稜