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「変死報告書」

私が入社したのは1972年(昭和49年)4月。
大阪社会部へ配属され、電話のかけ方、メモの取り方から始まって、新聞制作の過程、各紙面の構成と
締め切り時間、報道の客観性や倫理・正義などを教え込まれた。

原稿を書いても、ほとんどが書き換えられたり、ボツになるものばかりで、せいぜい私の文字が残るのは、
気象台が発表した天気予報や事故・事件現場の通行人の談話ぐらいだった。

要するに大した取材体験も社会面に掲載された記事も書いたことがないまま昭和51年2月、滋賀県の大
津支局へ異動を命じられた。当時から新人記者は地方の支局へ配属されるのが常だったから、何の不満
もなく、むしろ初めて暮らす土地への興味の方が強かった。滋賀県と言えば琵琶湖ぐらいしか知識が無か
ったが、大阪からさほど遠いこともなく、京都からも近かったので異郷へ来たという感覚とは程遠い。

支局でもまるで新米で、取材用の大型ジープの運転を任され、とりあえずの仕事は大津警察署が担当だ
った。

支局には支局長、市局次長(デスク)以下、県庁、大津市役所、県警、教育委員会を担当する先輩記者が
おり、彦根市と草津市、水口町(現在は甲賀市水口町)に通信部があり、支局の新米記者は所轄署(大津
署、堅田署)と決まっていた。

警察は当然のことながらその日に発生した事件事故の取材が仕事になる。午前8時に支局へ出勤して
すぐにジープで大津署へ入る。

大阪時代に少しは警察用語、例えば「コロシ(殺人)」「タタキ(強盗)」「チャカ(拳銃)」といった一般的な
符牒ぐらいは耳にしていたが、実際に警察の現場で刑事と会話をしたことはなかった。

初めて大津署へ行くと、記者に対応してくれるのは副署長で、その日までに管内で発生した事件、事故の
発生報告書を示してくれる。私を含め、各社の若手記者は署に入ると副署長席の前へ行き、発生報告書を
メモして、必要と判断すれば記事にするのだが、私はそれを目にするのも初めてだった。
例えば交通事故の場合「第一当事者」「第二当事者」の意味も分からない。
そこで副所長にいろいろと教えてもらうことになる。
「第一当事者」とは事故原因の車両のことだと教えられて顔を赤くしたのが忘れられない。

十日ほど経ったころ「変死報告書」が副署長席に置かれてあった。
「変死?」
「変死」とは老衰や病死などの「自然死」ではない遺体の事を指すのだが、私には(変な死体…)という
印象だったので、報告書に記されてある死体発見現場の琵琶湖競艇場へ行ってみた。
早い時間だったため、広い競艇場にはほとんど人影がない。
現場は建物の三階にある公衆トイレで、私が階段を駆け上ってトイレに入ってみると、数人の署員がいた。
彼らの目の下に下半身を出したままの死体があり、見覚えのある防犯(現・生活安全)課長が「何や?」と
驚いている。

「あの、変死ってコロシですか」と声をかけると「アホか」と防犯課長は呆れた顔で私を見た。

昨夜の当直責任者だった防犯課長が、競艇場からの通報により検視のために出動、死体に外傷や不審な
点がないかを調べて判断する。その結果を報告書(死体検案書)にまとめて記録する責任者なのだ。
検視の結果、この「変死者」は高齢の男性で、死因は脳内出血。
2月の寒い日だったので、高齢男性は用便中に脳内出血を起こしたようだ。

私は大津支局に五年近く在籍し、防犯課長ともずいぶん親しくなったが、このときの失敗談を何度も酒の肴
にされたものだった。

大津署担当は半年足らず、夏の定期異動で県警・司法担当記者が大阪へ異動になり、私は県警本部の
記者クラブへ入ることになる。事件担当として、まだまだ失敗が続くのだった。

作家 津島稜