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「滋賀銀行9億円詐欺事件裁判B」

滝川裁判長のもとで、滋賀銀行事件の公判はそろそろ大詰めを迎えていた。

その日も、他社の記者とともに私が法廷の傍聴席の最前列にある「記者席」に座ると開廷の合図があり、
裁判長席の後ろのいかめしいドアが開いて、法衣姿の瀧川裁判長らが姿を現した。あの秘密のエレベー
ターで降りてきただろう瀧川裁判長と一瞬目が合ったが、裁判長らは厳しい表情を動かすこともなく着席。
いつものように公判が始まった。

廷吏に促されて奥村、山県両被告が被告人席に座り、調べが始まった。

奥村は、相変わらず俯いたままで、検察官や弁護人の質問にほとんど抵抗することなく、白髪混じりの頭を
下げて頷いていた。一方の山県は「奥村さんが勝手にやってくれた」「私は何も知らなかったし、共犯者とは
違う」などと勝手なことを述べ続け、傍聴席の私でさえ呆れるほどの証言。
いかにも狡そうな表情や、奥村を侮蔑したような仕草は忘れられない。

裁判当初からマスコミは「奥村は男に騙された哀れな女」「一途な恋情で山県を繋ぎとめておきたかった」
などと女心に理解を示す姿勢で、山県には強い非難を浴びせる論調だった。法廷で毎回二人を見ていた
私も、山県は卑劣で最低の男だと思ったが、奥村に同情するには違和感があった。山県に縋る思いだった
ものの、いわゆる「金の切れ目が縁の切れ目」と最後の最後で気づいた奥村の愚かさは同情に値するも
のだろうか。(よくもまあ、こんな男と…どっちもどっちやなあ)というところが私の正直な気持ちだった。

判決公判は1976年6月と決まり、それまでの間、私は何度かプライベートで瀧川裁判長と会う機会があり、
裁判長も気を許して私に付き合ってくれた。大津市内の居酒屋へ誘ったときも「大津の地元でこんな所へ
来るのには気を遣う。裁判所の職員や検察、警察関係者に会うのはまずいけど、君と一緒やったらまあ心
配せんでもええわ」と笑ってくれた。

裁判の話はしないように気をつけていたが、たまに奥村の話をすることもあった。
新聞記者でなくとも判決の内容は気になるところだったが「まだ判決文は書いていない」とはぐらかされる
のが常で、私もそれ以上に非常識な質問を控えるぐらいは弁えていた。

判決が言い渡される日(判決公判)の前日、大阪本社社会部から電話があり「判決主文が言い渡されるの
は締め切りのギリギリになる。予定稿を早よ送れ」と急かされ、その後で整理部のデスクから「山県は10年
やろうけど、主犯の奥村も10年やろか」と質問された。

整理部というポストは新聞のレイアウトを担当するのと「見出し」を作るのが重要な仕事だ。
「その可能性はありますが、裁判長が主文を朗読するまでわかりません」と私が答えると「そんなことは
分かっとるわ」と怒鳴られた。整理部デスクが苛立つのには理由がある。

現代では新聞紙面のレイアウトは、コンピューターで文字の大きさ、色、デザインなどすべてモニター画面で
操作できる。しかし、当時は活版印刷で、文字は鉛の活字。見出しの文字は大きいので、1桁と2桁では使用
できる活字のスペースが異なる。つまり「10年」と「9年」では版で使う文字数を入れ替えなくてはならない。
整理部はたった1字の違いで枠組を変更しなければならない。
その作業の時間を考えて整理部のデスクは数字に注目していたのだ。
滋賀銀事件の判決記事は、量刑の数字が必ず主見出しになるから1桁と2桁では大変な違いだ。

社会部からの電話を切り、私は京都市山科区にある瀧川裁判長の自宅を訪れ、立派な暖炉のある応接室
に通された。

「裁判長、山県は懲役10年でしょうが、奥村はそれより少ないですか」

くどくどと活字の大きさの説明をしながらの私の性急な質問に、ソファに坐っていた裁判長は「なんぼ君で
も…誰であっても判決前にそれは言えんことは知っとるやろ」と呆れたように私を見た。
そして「判決はそこに置いてあるわ」と暖炉の上に置かれた小さな紫色の風呂敷に目を遣った。

ちょうど夫人がお茶を運んできたので、裁判長は「まあ、常識的な判決になったと思う。ちょっとトイレに
行ってくるから」と立ち上がり、夫人とともに部屋を出て行った。

一人残された私は暖炉の上の風呂敷包みに視線を集中した。風呂敷包みをほどくと判決文があり、その
最上部に主文が記されてある。裁判長はわざと席を外したのかも知れない。私は浅ましい誘惑に襲われ
たが、そんな自分を恥じ、部屋に戻ってきた裁判長に深く頭を下げ、瀧川邸を辞去した。もちろん風呂敷を
ほどいてはいないが、裁判長の目を見て、奥村は山県より刑期が短いと確信したのだった。

翌日の判決で言い渡されたのは、山県に懲役10年、奥村は8年だった。
おもむろに判決文を読み上げた裁判長の声は、私の一生の思い出になっている。

瀧川氏はその後、各地の裁判所長を歴任された後、京都市長選挙に立候補を要請されたが、
その直後の1979年に逝去された。今も心からのご冥福を祈っている。

作家 津島稜