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黒い手帳(1)

「あなた、首もとが寒くありませんか」

車椅子をゆっくりと押しながら、小百合(さゆり)は、豊(ゆたか)の背後から囁いた。
着古したジャケットの背をさすると、痩せた感触が痛々しく伝わってくる。
彼女は、車椅子のポケットに入れてあったウールのマフラーを取り出し、
ジャケットの上から豊の首もとに緩く巻きつけた。

十一月も半ばを過ぎた夜更けである。
小百合と豊は、琵琶湖の北西、近江舞子の湖岸から暗い沖を眺めていた。
「もう、随分と昔になりますねえ。あなたと一緒にここへ来たのは」
小百合のその声に、豊は「ああ」と小さく頷いた。
彼は、還暦の歳に脳内出血を起こし、左半身が麻痺したままになっている。
五年前のことだ。それ以来、リハビリの努力を続けているが、たいして効果は出ていない。
言葉遣いも不自由なため、ほとんど会話をしないようになってしまった。
それでも、小百合の問いかけには何とか応えようとするのが、彼女にとっては無性にいとおしく思える。

二人が結婚して三十五年になる。
大阪の御堂筋に本社のあるビル管理会社に勤めていた豊は、大阪市内の曽根崎や淀屋橋、北浜周辺の
オフィスビルに入居しているテナントのメンテナンスや賃料の集金業務を担当していた。
賃料の支払いはほとんどが金融機関の振り込みで行われるので、現金での支払いは滅多にないのだが、
なかには現金で集金しなければならないケースもあった。
そのひとつが、梅田のビルにある囲碁クラブで、
毎月末に、その囲碁クラブを訪れ、支配人から賃料を受け取っていたのだった。
その当時、小百合は囲碁クラブの経理事務員で、豊が担当になったころは採用されて間もなかったが、
支配人が忙しいときは、いつも彼女が豊に応対するようになった。

お互いに若かったので、一年もすると親しくなり、食事やスナックなどへ誘い合うようになったのは
自然といえるだろう。

豊は、囲碁をほとんど知らなかったし、小百合も素人同然で、たまたま親戚に囲碁好きがいて、
この囲碁クラブへの就職を世話してくれたのだった。

それから二年後に結婚し、小百合は男子を二人産んだ。
二人の息子は、すでに独立して家庭を持っており、豊と小百合の孫も一人ずつ、
そして、来春にはもう一人孫が増える予定だ。
「子供たちも立派に大人になったし、あなたのお陰で年金もいただけるから、これからはのんびりと
暮らしましょう。あなた、寒くないですか」
豊は、僅かに首を横に振った。

「そう。それならいいけど。琵琶湖の夜は冷えるから、風邪を引かないようにしなくちゃね」
二人が居る場所は、湖の渚線から少し離れた、湖岸の道路である。
街灯の僅かな光だけしかないため、波が寄せてくる様はぼんやりとしか見えない。
微かに波の音が聞こえるほかは闇に包まれている。
二人が宿泊しているホテルから離れていることもあり、人影はなく車も全く通らなかった。

結婚する少し前の夏、二人で近江舞子へ遊びに来たことがあった。
小百合の脳裏に若い日の光景が浮かんでくる。

「あの旅行は、面白かったわね、あなた」
一泊二日の小旅行で、開通して間もない湖西線に乗り、二人並んで朝の琵琶湖を眺めていた。
強い日差しが湖面に反射し、琵琶湖大橋が銀色に輝いて、遠くかすむ対岸まで真っすぐ伸びていたのを
覚えている。

近江舞子は、琵琶湖でも有数の遊泳場で、古くからリゾート地として知られている。
白い砂浜と湖岸に並ぶ松林の対比が美しく、ホテルなどの施設も多い。

水着に着替えて、豊の前に立ったとき、彼が眩しそうな視線をした。
小百合も水着姿が恥ずかしかったが、結婚する相手だからと覚悟はしていた。
「あなた、水上自転車に乗ったのを覚えている?」
豊は、黙ったまま、首を動かして小百合を見上げ、小さな笑顔を作って頷いた。

「自転車っていうから、小さいものかと思っていたら、筏みたいだったわね。二人で一生懸命になって
漕いだっけ。沖に出たら、あなた、水の中へ飛び込んだのよ。私、びっくりしたし、怖かった」
水が予想外に冷たかったようで、豊は水に入ってすぐに「足が吊った」と、情けない顔になって、
水上自転車にしがみついてきた。
溺れなくてよかったという思いよりも、そのときは彼の子供じみた様子が面白かった。
あとになって、よく事故を起こさずに済んだと冷や汗を流したものだ。

 
作家 津島稜