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黒い手帳(2)

その夜、和室の座敷に二人分の料理が並んだ卓に向かい合って座ったときの、面映い感覚が懐かしい。
ともに浴衣姿だったのが、かえって場違いな感じがして緊張した。
夫婦同然とはいえ、二人で宿泊するのは初めてだった。
豊も照れ臭かったのか、仲居が料理を並び終え、挨拶をして部屋から出て行くまでひと言も発しなかった。
そのくせ「君もひと口飲むか」と、妙に難しい顔をして、
熱燗の銚子を小百合に向けてからは「ここは静かだね」とか「フナ鮨の匂いは大丈夫か」「近江の酒は甘口
が多い」などとくだらないことを次々と口にしたのだった。

その後は間が持てなかったのか、豊は手酌で酒を飲み、料理に黙々と箸を運んだ。
実は、小百合もどんな料理だったのかほとんど覚えていない。
彼女も、閉められた襖の向こうに、
布団が二組並べられているのを見ていたので、どうしてもそれが気になっていた。

何となくぎこちない時間が過ぎ、豊が「テレビでもつけようか」と腰を浮かし、床の間のテレビのスイッチを
入れようとしたとき、その奥に碁盤が置いてあるのに気づいた。

「碁盤があるよ」豊のその声につられて小百合も床の間に視線を遣った。
立派なこしらえとまでは言えないが、脚のついた二、三寸ほどの古びた碁盤と、その盤面に碁笥が
二つ置いてある。

「こんなところで、碁盤を見るなんてねえ」
豊は珍しいものを発見したような口ぶりだ。
小百合も囲碁クラブで毎日、朝から晩まで見ているものだけれども、この部屋では、何故か懐かしさを感じ
る。豊は、何事か思いついたように「よし」と声を出し、その碁盤を食卓の横まで運んできた。
彼は「やっぱり、重たいなあ」と言いながら、碁盤の前に座った。

「小百合さん、一局やろうか」
「え?」
小百合が問い返すのは当然で、豊が囲碁を打つなんてことを聞いたことがない。
彼女も、囲碁クラブの客同士が対局しているのを眺めているだけで、ルールもほとんど知らないのだ。

「いや、五目並べだよ」
豊の子供っぽい笑顔に誘われて、小百合も碁盤の前に座った。

小百合の勤める囲碁クラブで、客が来るまでの早い時間、二人で何度か五目並べをしたことがある。
もちろん、どちらも大した腕前ではない。
豊が、懸命になって考えていた姿を思い出すと、今になっても可笑しさがこみ上げてくる。

「あのときは、私の三勝一敗だったのよ、あなた」
再び、車椅子をゆっくりと押し、小百合はもと来た暗い道をホテルのほうへ戻り始めた。

ホテルの玄関で、迎えに出てきたスタッフたちの手を借りながら部屋へ入ると、
すでに奥の間に夜具が整えられてあるのが見えた。
豊は、不自由な身体で車椅子から下り、座敷の中央の机まで這っていく。
左足はほとんど動かすことができないが、右足は何とか意志どおりに動かせるので、
部屋の中であれば、杖をつきながら壁や家具を伝ってのろのろと歩くこともできる。
豊は、座椅子に腰を入れて背を凭れかけさせた。
小百合が手助けしようとしても、彼にはそれを拒もうとする意地っ張りなところがある。

部屋係の仲居が「お茶を淹れましょうか」と声をかけたのに対し、豊は何ごとか喋ろうと口を開いた。
小百合が耳を近づけると「碁盤を」というように聞こえた。
彼女が頷いて仲居に「碁盤はありますか」と注文すると、仲居は「碁盤ですか」と聞きなおして
「多分ご用意できると思います」と少し首を傾げて部屋から出て行った。

「あなた、また五目並べですか」
小百合が揶揄するように豊の顔を見ると、彼は嬉しそうに、少しくぐもった声で「うん、うん」と返事をする。
しばらくすると先ほどの仲居が、折りたたみ式の薄い碁盤と碁笥を二つ持ってきた。
「お二人で碁をされるのですか」
仲居が不思議そうな表情で碁盤を二人の前に置き、再び首を傾げたような仕草を見せて、部屋から出て
行った。

「あのときを思い出すわねえ」
小百合が微笑み、碁盤を広げ、白石の入った碁笥を豊の前に押しやった。
豊は右手でその碁笥を手前に引き、白石を一個つまみ上げる。
そして、小百合に黒石から打ち始めるように合図をした。

小百合は、黒石を盤面の中央に置き、豊の顔を見る。
「あなた、あの夜、私に何もしなかったわね」
豊は、白石を持ったまま怪訝そうな表情になっている。

「五目並べをしたあと、布団に入ってから、私、あなたがいつ私の布団の中に入ってくるのかと、こわごわ
待っていたのよ」と言って、小百合は小さな笑い声を出した。
豊は、とぼけたように盤面に視線を落とす。

「お酒を飲んで、すぐに寝ちゃうんだから。大きな鼾だったわよ」
小百合の言うように、豊はあの夜、彼女の身体に触れなかった。
と言うよりも、彼は結婚式が終わった初夜まで彼女の身体を求めたことがなかったのだ。

豊は、上体を捻るようにして盤面を見つめ、ゆっくりとした動作で白石を置く。
小百合はその様子を目で追いながら、ふと(この人と結婚して良かったのかしら)という思いを胸に浮かばせた。

作家 津島稜