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黒い手帳(3)

豊は、予想通り真面目な性格だった。
毎日の営業活動は、梅田や淀屋橋周辺が多かったので、たまに昼休みの時間に顔を合わせることもできた。

小百合は結婚してからも、囲碁クラブに勤めていたが、二年ほど経った冬の昼間、クラブの入っているビル
でボヤ騒ぎがあった。クラブは三階にあり、二階の料理店から出火した。場所が梅田の繁華街だったため、
消防車が何台も駆けつけ、野次馬でごった返すなど一時は騒然となった。
火事はすぐに消し止められて大事には至らず、小百合もクラブの入場客とともにいち早くビル外へ逃れたた
め無事だった。野次馬に混じってビルを見上げていたら、豊が消防車の間から走り出て、薄煙がたなびく
ビルの中へ駆け込んで行くのが見えた。

小百合が豊の後を追うと、彼が階段の途中で「小百合さんっ」と大声で呼んでいるのが聞こえた。
彼女が慌てて追いつき「私は大丈夫よ」と声をかけると「ああ、よかった、よかった」と彼は階段に座り込ん
でしまったのだ。

その赤い顔を見たとき、小百合は胸の底から熱くなった。
営業の途中で火事騒ぎに気づき、必死で走ってきたのだろう。
自分の危険など眼中になく、夢中で彼女を助けに来てくれたと知り、涙が溢れ出たのだった。
(小百合さん、だなんて。呼び捨てにしたらいいのに)

碁盤の前で俯いたままの豊の頭に視線を戻して、小百合は(あなたと結婚して良かったのよね)と胸の中で
呟いた。彼の頭が薄くなり、白髪が多くなったのも、不思議と安心感を与えてくれる。
たしかに結婚して何年間も豊は「小百合さん」と呼んでいた。上の息子が中学生ぐらいになって、
さすがに不自然と考えたのか、そのころから「小百合」と呼ぶようになったと思う。
あの囲碁クラブは、火事騒ぎがあってから間もなく店を閉めた。
客足が年々少なくなってきたのに加え、火事の後始末で余計な費用がかかりそうなのを見越して、
経営者が閉店を決断したのだった。小百合は、それを機会に勤めに出ることをやめた。
豊も、賛成してくれ、以来専業主婦で気楽な毎日を送っている。

豊は、六十歳の定年まで勤めた。平凡で、とくに波乱もない夫婦生活だったと言えるだろう。
彼は重役にはなれなかったが、管理部長で退職し、退職金も予想より多くて驚いたことを覚えている。

だが、豊は、退職直後に脳内出血に襲われたのである。
友人と居酒屋で飲んでからの帰宅途中、道路上で突然、倒れたらしい。
幸い通りがかった人のお陰で、すぐに救急車に乗せられ大きな病院に搬送された。

消防署からの連絡で、小百合が病院に駆けつけたときは手術の最中だった。
長い時間、待たされたあと、担当の医師が「ギリギリでした。
あと一時間、いや三十分も遅かったら駄目だったでしょう」と説明してくれたが
「後遺症が残りますので、奥さん、それは覚悟しておいてください」といわれたときは、
それがどれほどのものか、彼女は知る由もなかった。

豊は、無理をして高額な生命保険を契約しており、さらに高度医療の保険にも加入していたので、
小百合が入院の諸費用や治療費の心配をすることはなかった。
その点でも、彼は家族に迷惑や心配をかけることのないように心がけていたのが分かる。

しかし、術後に退院してからの豊は、人が変わったように荒んだ。
半身麻痺という現実は、彼にとって凄まじい衝撃だったのだろう。
朝から晩まで意味不明のうめき声を出したり、あたり構わず物を投げつけるようになった。
ベッドから転げ落ちるのもしょっちゅうで、入浴や、とくに排泄で小百合の世話になるのを嫌がった。
彼女はそんなことは苦にならなかったが、ベッドの枕に顔を埋めて耐えている彼を見るのは辛かった。

夜中に、自分でトイレに行こうとして転倒し、夜明けになって小百合がそれを見つけて動転したことも
しばしばだった。医師からは、なるべく精神安定剤を使わないようにと指示されていたが、豊は幼馴染の
薬剤師に頼んで睡眠薬を受け取るようになった。寝る前にそれを服用することで、豊は朝まで睡眠をとる
ことができるようになり、今もその習慣は続いている。

一年ほど、豊はそんな苦しみを味わった。
その間、時が経過するにつれ、彼の苦しみも少しずつ薄れていったようで、
徐々に現実を受け入れるようになった。おそらく葛藤を繰り返して、落ち着きを取り戻していったのだろう。
諦観が彼の精神を支配したのかも知れない。二年目ぐらいから、リハビリの訓練もするようになった。

「また、私の勝ちよ。あなた」
小百合が、豊の顔を覗き込むと、彼はちょっと悔しそうに右手の人差し指を立てた。
もう一回」という合図だ。
「はい、はい」と小百合は微笑みながら、石を碁笥に戻し、再び黒石を盤面の中央に置く。
そのとき、彼が口を動かし、彼女に話しかけようとした。

「何ですか」
小百合が耳元を近づけると「ウィスキーが欲しい」と言ったように聞こえた。

「ウィスキーですか」
小百合は、豊に睨んだような視線を送ると、彼は(頼むよ)と言うように唇を動かす。
医師からは酒は控えるように注意されているが、昨年辺りから、たまに酒を飲むことがある。
彼は、若い時代からバーボンウィスキーが好きで、晩酌には決まってオンザロックを二、三杯空けたものだ。

「仕方ないわねえ」
小百合は笑みを浮かべて立ち上がり、部屋の隅にある冷蔵庫のドアを開けた。
豊の好きなバーボンはなかったが、国産のウィスキーのハーフボトルが入れてある。
彼女はそのボトルを取り出して、オンザロックをつくり、白石を持つ彼の右手の横にグラスを置いた。

豊は、グラスを手にとって、ひと口飲んでから小百合を見て笑顔を作った。彼女は、睨んだふりをする。
彼は、再び笑顔を作ってグラスを置き、同じ右手で白石をつまみ、盤の上に置いた。

二人が交互に打つ石の乾いた音以外には、何の音も聞こえない。晩秋の静かな夜が更けていく。

作家 津島稜