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黒い手帳(4)

「あら、今度は私の負けだわ。飛び四三(しさん)とは気がつかなかった」
五目並べは、白黒交互に打って、先に五目並べたほうが勝ちという、子供たちでも知っているゲームだ。
一度に四と三、あるいは四と四ができれば必然的に勝ちになる。
飛び四三や四四はやや特殊で、相手が気づき難いところがある。
小百合が驚くのを見て、豊は得意そうな表情になった。

豊が、もうひと口グラスを傾けるのを見て、小百合は「そろそろ、やすみましょうか」と碁笥の蓋を閉じると、
彼も素直に頷く仕草で、自分の碁笥を閉じた。

豊は、小百合の手を借りて中腰になり、布団が敷かれてある部屋まで這って行った。
彼は、着ていたジャケットを脱ぎ、浴衣に着替えて布団に入ろうとしたが、
ジャケットのポケットから睡眠薬の入った瓶と紙片を挟んだ手帳を取り出し、枕元に置いた。
彼は、比較的自由になる右手で、予定やその日の出来事を書き残すのを楽しみにしている。
小百合は(明日また、何かを書いて見せてくれるのね)と思って、その黒い手帳に和んだ視線を送った。

小百合も浴衣に着替えながら「睡眠薬なら、私も持ってきたのに」と言うと、
豊は手を振り、そして彼女に向かって口を動かす。

小百合が耳を近づけると(ウィスキーと水)というように聞こえた。
彼女は、ウィスキーの入ったグラスと水を盆に載せ、豊の枕元に置いた。

「もう、あんまり飲んじゃ駄目ですよ」
小百合も、豊の横の布団に腰を入れかけたが「私も、一杯飲もうかな」と言って立ち上がり、
グラスに半分ほどウィスキーの水割りを作って、自分の枕元に置いた。

「何だか、学生時代の旅行みたいね」枕を並べた横の顔を見ると、微笑んでいるように見える。
小百合は幸せな時間を実感した。
彼女が水割りをひと口飲もうとすると、豊が睡眠薬の瓶を開け、錠剤をひとつ彼女のグラスに入れた。

「せっかくの時間なのに眠くなっちゃうじゃない」
小百合が、少し口を尖らせてそう言っても、豊は黙ったままである。
彼女は、ぼんやりとした時間を味わうように水割りを飲む。
眠くなるのがもったいないような気もしたが、彼が入れてくれたグラスの底の錠剤も一緒に飲み込んだ。

「あなたが見たいって言ったけど、夜の琵琶湖は、何だか寂しいし、怖いような気もした」
小百合の脳裏に、つい先刻眺めた琵琶湖の夜景が甦ってくる。
ただ沖に向かって闇が広がっているだけだったが、豊との長いようで短い時間を回想させてくれる景色だった。
彼女は(私が元気な限り、あなたの世話をしてあげる)と口に出そうとしたが、
彼に余計な負担を感じさせるかもしれないと思い、その言葉を呑み込んだ。

「あなた…」と、小百合が囁きかけようとしたとき、睡魔が襲ってきた。
さすがに睡眠薬の効果はてきめんで、間もなく彼女は深い眠りに落ちていった。

得体の知れない音や気味の悪い色に脅かされた夢を繰り返し見たような気がして、
小百合が目覚めたときは朝になっていた。
一瞬、障子からの光が目に入ったが、次の瞬間、隣の豊の異様な寝姿が目に飛び込んできた。
浴衣がはだけ、手を喉にあて、脚を奇妙な形で折り曲げている。

「あなたっ」
小百合は豊の顔に手を遣った。反応が無い。枕元に置いてあった睡眠薬の瓶が空になって転がっている。

「あなたっ」
あとは夢中だった。
ホテルのフロントに救急車の手配を頼み、急いで着替えを済ませ、荷物をまとめ、豊に付き添って病院へ
行き、処置室のドアの前で長い時間待たされた。だが…。

残念ですが、お亡くなりになりました。
運び込まれたときはすでに心肺停止状態で、瞳孔も開いておりました。
蘇生に全力を注いだのですが」と白い顔をした若い医師の言葉は小百合には聞こえていない。

「奥さん、死因は睡眠薬の大量摂取と考えられます。
ただ、市販の睡眠薬では滅多なことで死に至らないのですが、ご主人はアルコールを摂取されていたのに
加え、服用された睡眠薬が一般の市販ではなく危険性の高いバルビツール酸系の睡眠薬だった可能性が
あります…」
小百合は、そんなことはどうでもよかった。
豊が死亡し、生き返ることはないという現実を認めるのが嫌だった。

検視、遺体搬送、通夜、告別式と慌ただしく時間が過ぎ去り、骨壷と位牌を抱いて自宅に戻って、仏壇に
それらを丁寧に並べ終えると同時に涙が流れ落ちた。

「あなた」位牌に向かって呟いた小百合は、旅行の荷物の中に遺品となってしまった黒い手帳を見つけた。
白い紙片が挟まっている。彼女は、その紙片を開いた。

(小百合さん、今日までありがとう。もうこれ以上、小百合さんに迷惑をかけられない。本当にありがとう。小
さな家と、保険金しか残せなかったけれど、許してください。ただただ、小百合さんの幸せを願っています。
さようなら、小百合さん)

小百合は、そのメモ書きを何度も読み返した。これは遺書なのだろう。豊は、いつこれを書いたのだろうか。
あの夜か、それとも旅行に出る前に書いていたのかもしれない。

「バカねえ、あなた。最後まで、小百合さん、だなんて」
豊は、小百合を早く寝付かせようと睡眠薬を飲ませた。
あとになって考えると、彼は覚悟を決めて、夜の琵琶湖を眺めていたに違いない。

小百合は、五目並べで勝ったときの豊の得意そうな顔と、車椅子の痩せた背中を、涙を流しながら思い浮かべた。

(了)

作家 津島稜