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死刑囚の棋譜(1)

鈴木美紀が、大阪・中之島の大阪弁護士会館の玄関をくぐったのは爽やかな秋風が吹き始めたころだった。

会館は地上十四階のスマートなビルで、旧検察庁舎の跡地に建てられた。
各階に相談室や資料室、研修施設があり、上層階に会議室や役員の執務室などがある。
美紀は一階の受付で「田中弁護士会長さんに」と伝えると、若い女性職員が笑顔を見せて頷き、
エレベーター乗り場に案内してくれた。

役員室のドアが開かれたところは秘書室のような部屋になっており、
その奥が弁護士会長の執務室だった。美紀が来意を告げると、丁寧な言葉遣いで、スーツ姿の男性が
「会長がお待ちかねですので、どうぞお入りください」と、奥の部屋を掌で示した。
美紀は礼を述べてから会長室のドアを押した。

美紀が田中会長を訪れた理由は、一週間ほど前、棋院の小杉理事長に「弁護士会長に指導碁を打って
やってくれないか」と頼まれたからである。

「弁護士会長さん…?」
訝しげな表情で問い返した美紀に、小杉理事長は「今の弁護士会長は私の次の理事長の有力候補や」と
笑い、大阪弁護士会についても簡単に説明した。

「弁護士さんですか。あの、裁判で被告を助けたり、人権を守ってくれる人ですよね」
「そうや。君はまだ若いし、弁護士の世界をよく知らんのかも知れんな。弁護士は法律相談のほか、
裁判の立会いもする。法廷ドラマなんかで刑事被告人を無罪にして脚光を浴びることもあるが、
ほとんどは民事事件の代理人の仕事が多い。離婚や相続の問題、それと金銭トラブルの解決やな。
悪人にとっては頼もしい人やけど、とにかく揉め事と一緒に毎日暮らしているわ」

美紀には弁護士の友人や知り合いがいなかったので、小杉理事長にそう言われて、美紀は迷った。
だが「プロ棋士にとっては有難い話やから行ってこい。しかし手抜きはするなよ」と、
理事長に背中を押されたのだった。

美紀がドアをノックして執務室に入ると、半分白髪頭の田中会長は執務机から立ち上がり
「おう、よく来てくれました」と笑顔を見せて迎えてくれた。

「はじめまして。鈴木です」
「うむ、評判通りの美人ですな。今日は無理なお願いをして申し訳ない」
簡単な挨拶のあと、会長は機嫌良さそうに美紀を応接セットに座らせた。
テーブルの上に碁盤が置かれてある。

「今年の夏は大変な猛暑でしたが、体調や対局に影響はなかったですか」などと他愛のない会話を
済ませると「では、早速」と、会長は黒石の入った碁笥を手前に引き寄せた。
アマチュア5段の免状を持っているという会長は「小杉さんとは古い付き合いでね、彼から強く勧められて
この機会を持ちました。三子局でお願いしろと言われましたけどね」と、美紀の表情を窺う。
「会長さんが、それでよろしければ」
美紀が微笑を浮かべて対局が始まると、会長の着手は意外と早かった。
プロ棋士の指導碁を受ける場合、アマチュアは長考をしたがるものだが、
会長は簡明な着手を意識しているようだ。手厚いという棋風ではなく、中盤までは黒石のバランスが
良さそうに見えるものの、全体的に石が薄い。まあ、免状通りの棋力と評価したいところだが、
名誉職というところで棋院は甘めの段位を授けたのだろう、と美紀は内心で感じている。

美紀は強引な着手を避け、中盤を過ぎてもやや黒が優勢を保つように心がけた。
その結果、黒の大石が死ぬことはなく、寄せで白が的確に着手を続けたため僅差で白の勝ちとなった。

「いや、優しい手を打っていただいたなあ。もっと厳しく攻められるかと思っていたけど」
会長は満足そうに終局の盤面を見る。
「いえいえ、会長さんの感覚は見事でした」美紀のお世辞に、
会長は「ありがとう。これからもぜひご指導をお願いしたい。でも、次からは厳しい手でね」と、
謙遜しながらも美紀のことを気に入ったようだった。
それから十日ほど経って、会長から再び美紀に誘いの電話があった。
ただし、今度は会長室ではなく、裁判所の北側にある老松通りの料理屋だった。

加賀料理の老舗で、夕刻になって美紀がその店に行くと、女将に二階の座敷へ案内された。
襖が開かれて、彼女が広い座敷に入ると、すでに十数人の男たちが膳を並べて座っている。
彼女は驚き、戸惑っていたが、床の間を背に座っていた田中会長が「美紀先生、皆で待っていました。
どうぞ、ここへ座ってください」と、自分の横に用意された席へ手招きをする。
「はい。あの…」美紀がなおも戸惑っていると、
会長が「今日は、指導碁は無しで、われわれが挨拶をしたいので集まったんだ。まあ、とにかく座って
ください」と笑顔で声をかけた。

遠慮がちに美紀が会長の横の席に座ると、会長が「じゃあ、始めますか。とりあえず乾杯」と一同に
向かってビールのグラスを持ち上げた。
男たちはいずれもスーツ姿で、四、五十代、何人かは還暦を過ぎたように見える。
乾杯が終わると、会長の指示で、男たちは順に自己紹介をした。
弁護士会や警察の幹部、電力やガス会社の重役たちで、関西の法曹界、財界の重鎮とされる男たちだった。

美紀には別世界の男たちばかりで、いかにも自分が場違いなような気になり、また何を話せばよいのかも
分からない。

「あの、会長さん。私が何故こんなお席に呼ばれたのですか?」美紀にすれば当然の質問だった。

「うん、いや、別に大袈裟なものじゃあない。今日は美紀先生の応援団の結団式というところだよ。
ここにいる皆は、全員が美紀先生のファンで、一応、碁の好きな連中ばかり。
ただし、全員が私同様のザル碁だけどね」
「は、応援団ですか」
「そうだ。しかし、こんなオヤジばかりじゃ不足かもしれないけどなあ」美紀は返す言葉を捜したが、
思い浮かばない。

「これから毎月一回、ここへ集まって美紀先生から指導碁を受けたいと皆で決めたんだが、どうだろう。
引き受けてくれませんかな」田中会長は、座敷の男たちに同意を求めるよう視線を巡らせた。
何人かが「お願いしますよ、美紀先生」と声を出した。
「はあ。それは有難いお話ですが、私みたいな者でよろしいのでしょうか」
「もちろん。われわれの目標は、美紀先生にタイトルを獲っていただくのと、ここにいる全員が5段以上に
なること、です」

「はい…どうかよろしくお願いいたします」美紀は、恐縮した動きで一同に深く頭を下げた。

 
作家 津島稜