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死刑囚の棋譜(2)

美紀は関西棋院の女流棋士で七段である。
よくある話だが碁が好きな父親の影響を受け、中学卒業と同時に入段。
十代でタイトルを獲得し注目を浴びた。
均整の取れたスタイルで、涼やかな目元と、明るい性格が魅力となって一躍人気棋士になり、
マスコミにもしばしば登場。各地で催されるイベントにはほとんど顔を出すようになった。
しかし、その後の数年間は伸び悩む苦しみを味わい、タイトルも失った。
若い女性にとって、周囲にチヤホヤされることは棋力上達には妨げになったかもしれないし、
もうひとつ、結婚適齢期を迎えて恋の悩みに落ちた。
相手はコンピューター技術士で、囲碁とは無縁の世界のサラリーマンだった。
その恋人と婚約をし、二人で過ごす時間の楽しさが、それまでの碁に対する凄まじい執念を遠ざけたのか。
彼の腕に抱かれながらも、碁を知らない相手に苦しさや悩みを相談しても無理がある。

棋院の小杉理事長は、うすうすそんな美紀の悩みを感じ取っていたのだろう。
いつか「将来のことも考えておくように」とアドバイスをしてくれ、後援者も何人か紹介してくれた。
田中会長もその候補だったようだ。

美紀は今年二十九歳。結婚を考える女性にとっては決して若い年齢とは言えない。
婚約者と知り合った当初はむしろ新鮮で嬉しかったが、正直なところ、近い将来結婚して、
囲碁の世界とはまったく無縁の夫と人生を共に過ごすことが最善だとは自信がなくなりかけている。
だが、彼女は他の男に魅力を感じたことはなかったし、彼の優しさやのんびりした性格には、何かにつけて
心を和まされてきた。

三十歳までには結婚式を挙げるつもりでいる。
妊娠には注意しているが、やがて子どもが生まれれば、囲碁の研究や研鑽はどうなるのだろうかという
不安もある。「まあ、とにかくやれるだけは頑張ろ」
美紀は、一人になるとこの言葉をしばしば口にするようになった。
まだ夏の名残が感じられるにしても、木陰を歩くと、ひんやりとした気配が伝わってくる。
(これから女としては中盤戦。私の人生の布石は上手くできたのかしら)

美紀は六甲山の中腹にある自宅から坂道を下り、駅に向かうまで、物思いに耽ることが多くなった。
若いころは何事にも夢中で後先のことは考えたこともなかった。
しかし、そろそろ自分の生き方、将来のこと、家族のこと、そして囲碁のことも冷静に考えるようになって
きた。囲碁界では「碁の局面にはその人の性格や人生まで現れる」と言われる。
美紀は、自分の碁は、いわゆる「攻め碁」だと自分なりに分析している。
未熟なときは、冒険好きで負けず嫌いだからと納得していたが、最近では、刹那的に判断してしまい、
危険を予知できないと反省するようになった。
それは、深いところ、遠いところまで到達できずに、直感だけで着手を決めることを意味する。
「早見え」とか「天才的」などとおだてられても、結局、先を読む努力が足りないということだろうか。
(私の囲碁人生は、まだまだ先が長いのよね)
この言葉は「今」から逃げていると、美紀は気づいている。
これから年を取るごとに、思考力も記憶力も衰えていくことも彼女は知っている。
それなのに、将来の努力や可能性を期待するには虫が良すぎるのではないかと、
自分自身に警告を発するのはやむを得ない。
明るい日差しの坂道で、美紀は婚約者の顔を思い浮かべ、そして何故か田中会長の顔も思い浮かんだ。

老松町の加賀料理店で始まった月に一度の例会は、毎回欠席者はほとんどなく、美紀と田中会長を
安心させた。美紀の指導碁は、厳しさと柔軟さを織り交ぜた着手、
それと局後の明快な解説に会員は十分満足していた。
数ヵ月後のある日、田中会長から食事に誘われ、その席で「ちょっと美紀さんに相談があるんだが」と
持ちかけられた。
「何でしょう、先生」
親しさが増すにつれ、会長は「美紀先生」と呼ばなくなり、逆に美紀のほうが会長を「先生」と呼ぶように
なっている。

「昔、郵便将棋とか郵便碁というのがあってね。美紀さんも聞いたことがあるだろ」
「あの、一手ずつハガキで記入する対局ですよね。
「そうだ。一局に何ヶ月もかかるけど、それなりに面白い」
「今じゃあ、コンピューターやネットで対局できますから、とても信じられません」
「その代わり郵便碁ではじっくりと考えられる」
会長は、熱燗をゆっくりと口に運び、美紀の盃にも銚子を傾けた。

「都島の拘置所に原松という死刑囚が収監されている」
会長が口調を変えた。
視線も遠くを見つめるようになっている。
「コウチショ、ですか」
「ああ。裁判で刑が確定するまで被告人を入れておくところだ。刑が確定すると刑務所に移されるけどね」
「はあ」
美紀は拘置所や刑務所についての知識が皆無である。
「その原松はもう十年以上も拘置所に居るんだが、この男、拘置所で碁を勉強してかなり強い。
それでね、原松と私は何年か前から郵便碁を続けている」
「へえ」
「今の碁は、もう二百手近くになっている。近いうちに棋譜を見せるよ」
「その人はどんな人なんですか」

作家 津島稜