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死刑囚の棋譜(4)

「先生、私、ちょっと気分が悪くなって…」
「うむ。美紀さんには少々刺激が強すぎたか、いや、申し訳ない」
会長は、原松との面会も考えていたようだが、美紀の体調に配慮して、二人は法務省の視察員よりも
先に拘置所を出た。

翌週、美紀は久しぶりに会長室を訪ねた。
拘置所を見学させてもらった礼と、会長から「原松との郵便碁を見せるよ」と言われていたからである。

「先日は有難うございました。拘置所なんて、もう行くことはないでしょうけど、勉強になりました」
「刑場には驚いたようだったね。私も何回か死刑の執行の記録を見たけど、少々というか、かなりこたえたな」
「私にとっては凄い経験でした。死刑は怖いですね。やっぱり刑務所には行きたくないなあ」
「もちろん、そんなことになっては困る。刑務所というのは、刑に服するところだから死刑場はない。
死刑判決の執行は、即、死を意味するからね。それで死刑囚は未決囚の扱いになるんだよ」
「へえ、そうなんですか」
美紀の脳裏に、あのからくり絵のような仕掛けが甦った。
まるで芝居のどんでん返しだが、人の世の裏表を一瞬で見たような気になった。
うわべだけでは分からない人の心。真実はなかなか見抜けないものだと教えられたように思う。
自分はこれまで人に騙されたり欺かれたことがなかったのだろうか。
あるいはその逆で、人を裏切ってしまったり、誤解されたことがなかっただろうかと反省したくなる。

「原松は、当分、死刑の執行を受けないだろうね。ひょっとして再審、裁判のやり直しになるかもしれない」
会長の説明を聞いて、美紀は「検事さんや弁護士さんのお仕事は、大変なんですね」と溜息をついた。
「ああ。真実を見つけて証明するのは極めて難しいことだ」
会長も厳しい表情になった。

美紀は、囲碁の世界に思いを巡らせる。
白と黒の単純な世界だが、着手ごとの変化は無限と言っていい。
勝利という真実を見つけるのは至難であり、独善に陥って、とんでもないどんでん返しを食らわせられた
経験も一度や二度ではなかった。

「あーあ、何でも難しいんですねえ」
「どうしたんだい、美紀さんらしくもない。これまで通り楽天的に行けばいいんだよ。それより私と原松の碁を
見てくれ」
そう言って会長は立ち上がり、書類ケースから夥しい数のハガキの束を取り出してきた。
「これで二局分だ。半分は一局目で、残り半分が現在進行中」
「このハガキって、往復ハガキなんですね」
「そうだよ。原松にとっては郵便代が大きな負担だから、私が往復ハガキで送っている。彼とは互先で
やっているんだが、一局目は、私が黒番で見事にやられた」
「へえ」
「棋譜を取ってあるから見て欲しい」
会長は折りたたまれた棋譜を広げて美紀の前に置いた。
「碁盤があれば並べてみますが」
「いいよ。私は何回も並べている」
美紀は、その棋譜をしばらく注視した。

「この原松さんはなかなかお強いですね。隅の変化を見ると、定石にも明るそうだし、終盤の寄せも
しっかりしています。そうですねえ、先生と互角か、ひょっとしたらそれ以上かも」
「うん、私より強いだろうね。この一局は一年以上かかったよ」
「まあ」
「それでね、これが今対局している分だ」
会長はもう半分のハガキの束を差し出した。
「今度は私が白番。かれこれ一年以上になるかな。二百手近く進んでいるんだが、彼の着手は奇妙な手が
多いんだ」
「奇妙な手?」
「棋譜は取ってあるが、せっかくだから並べてみよう」
会長は再び立ち上がり、サイドボードの下から碁盤を取り出した。
会長が白石、美紀が黒石を持ち、交互に盤上に石を置いていく。
「この辺りから原松は変な手を打つんだ。例えば、ここで無駄なノビ、ここでは斜めに石を並べている。
競り合った場面でも、場違いなところへ打ったりね」
百手ほど進んだ局面で、たしかに黒石は奇妙な着手を連続している。
とても有段者とは思えない支離滅裂な感じだ。会長はさらに石を並べ、美紀も同様に黒石を置いていった。
「これで今日までの分を並べたことになる。どうだい、変てこな局面だろ」
局面は二百手近く進んでおり、終局間近になっている。
会長の言うように、黒石は、プロ棋士が見るまでもなく、アマチュアの級位クラスでも打たないような着手が
目立つ。
「とても同じ人の碁とは思えません」
美紀の正直な感想だった。

「私も同感。最初はなめられているのかと腹が立つぐらいだった。ところが、だ」
会長は、盤面にアゲ石(相手から取った石)を元の位置に置き直して「もちろん勝負にはなっていないが、
この局面をじっと見ていて、それから原松の側、そっちの美紀さんの座っているほうからも見て、
やっとあの男の意図が分かった」
「はあ?」
「美紀さん、立ち上がって盤面をよく見てご覧」
会長に促されて、美紀は立ち上がって盤面を見下ろした。
「あっ、先生、これは」
美紀は驚いたように会長を見返した。

「そうなんだ。原松から見て上辺の左側は、並んだ黒石が『ム』に見えるだろう。中央付近はややいびつだ
が『ジ』に読める。そして下辺右側はどうだ?」
「はい。『ツ』です」
「そうだな。原松はこの盤面に『ムジツ』と書いた。私に無実を訴えたかったんだろう」
美紀は、原松の執念に感嘆した。
プロ同士の遊び碁で模様を描くことはあるが、このように明確に文字を描いた経験はない。

「この原松という人は、先生を信頼して助けを求めているんでしょうね」
「そうかもしれないが、今の日本の裁判で再審は難しいな…原松に何で碁を始めようとしたんだと
聞いたら、白石を見て、あの夜の満月を思い出したからとか言っていた。じゃあ、と私は冗談半分で
那智黒の飴を差し入れてやったよ」
会長は思い出し笑いをした。

美紀は田中会長の思いやりと人間性をあらためて知らされた気がした。
死刑囚と交流を続ける弁護士がどれほどいるのかは知らないが、彼女は二人に囲碁を通じた友情の
ようなものさえ感じる。
「今週はまた例会だな。よろしく指導碁を頼むよ」
「あ、そうでしたね。もちろん一生懸命やらせていただきます」
美紀にも笑顔が戻った。

彼女は、婚約者の顔を思い浮かべ(彼にも、本気で碁を教えようかしら)と含み笑いを洩らしている。

(了)

作家 津島稜