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白いラブレター(1)

月明かりの中から、桜の花びらが舞い降りてきた。

「わあ、きれい」

東山の高台寺(こうだいじ)からの坂道を下りてきた幸子(さちこ)
周囲を見上げたが、辺りに桜の木は見当たらない。
数片の花びらは、あの高台寺の庭の、枝垂れ桜から夜風に流されてきたのだろうか。
ぼんやりとした街灯がポツンとあるだけの道は、人通りもなく静まり返っている。

闇間を漂う花びらを追っていた眼の奥に、修介のはにかんだような顔が甦ってくる。

「よかったね、修ちゃん」

再び、幸子は呟いた。
東大路通からの路地を入ったところにあるアパートの彼女の部屋まで、もうすぐの距離になった。
桜の季節になったとはいえ、京都の夜は、まだ冷たい風が首元に忍び込んでくる。
日が暮れてからの若い女性の一人歩きは心細かったが、彼女はこの道を歩いて帰りたかったのである。

蹴上(けあげ) にあるホテルから、青蓮院、知恩院の横を通り、高台寺の前まで回り道をしたら小一時間ほど
かかった。その間、幸子はとりとめもなく修介のことを思い浮かべていたのだった。

ホテルの宴会場での帝王位就任式は、囲碁界の関係者のほか、
関西の政財界、文化人や芸能人など二、三百人が招かれて盛大に行われた。
名人や本因坊位と並び称される帝王位を関西の棋士が獲得するのは十数年ぶりのことだ。

修介は、赤いリボンを胸につけ、壇上の中央に立っていた。
彼がこの式典の主役である。
祝辞を受け、賞状や賞金目録を授与されたとき、微かに笑顔を浮かべただけで、ほとんど表情を
変えていない。

一瞬だけ、隅のほうの人ごみにいた幸子と視線が合った。
そのとき修介は、あの懐かしいはにかんだような顔になったのだった。

幸子は、囲碁の世界をよく知らない。
それでも、帝王位というタイトルが非常に価値の高いものだということは、
この日の式典に参加しただけでも十分に理解できる。
修介の長い間の努力が実ったことが、彼女には何よりも嬉しく、
その一方で、彼がはるか彼方の存在になってしまったようで、寂しさもこみ上げてくる。

幸子のもとに修介から招待状が届いたのは、一ヶ月ほど前だった。
「気を遣わなくていいから、顔だけ出して」と、メモ書きが添えられてあった。
立派なホテルだし、そのような場所に相応しいドレスもアクセサリーも持っていなかったので
気おくれがしたが、久しぶりに彼の喜ぶ顔が見たいと思い、式場の大きな宴会場に入った。
だが、これほどの豪華な式典だとは予想もできなかったし、知人がいるわけでもないため、
彼女は引き返そうかと迷ったほどだ。

著名人たちの祝辞や、乾杯、それに続く立食パーティと時間が過ぎ、閉会の時間を迎えると、
修介は退場していく参会者を見送るため、
入口の扉の前に立ち、ひとりひとりに丁寧に礼を述べ始めた。
幸子も、他人行儀に頭を下げて、会場を出ようとすると、コンパニオンから土産の袋を手渡されたた
め、彼女は遠慮しようとした。
そのとき修介が「幸ちゃん、これも持って行って」と紅白の長い熨斗袋を差し出し、
土産の袋にそれを入れた。

「何、これ」

幸子が問い返すと、修介は「扇子だよ。帰ってから開いてみてくれ」と言って、
すぐに見送りのための場所に戻ってしまった。

幸子が首を傾げていると、後ろに並んでいた婦人が「揮毫(きごう)の入った扇子ですよ」と教えてくれた。
プロ棋士が、白扇に座右の銘などを書いて、ファンに贈ることは珍しいことではない。
とくに人気棋士が大きなタイトルを取った記念の扇子は、
後年になっても値打ちがあると評価されている。

結局、この日、修介とはそのひと言を交わしただけで幸子は会場を出た。
彼女の胸にはやるせなさしか残されていない。
修介とともに過ごした時間が、遠い過去になってしまったようであり、
交わした言葉が泡となって消えてしまいそうな気になる。

作家 津島稜