コラム

「繁栄による幸福を説く経営者 松下幸之助(後編) 第1話」

昭和二十年八月十五日正午。幸之助は幹部社員とともに、敗戦の玉音放送を講堂で聞いた。だが、幸之助の闘志はなお盛んだった。

(こんな時やからこそ、わが社が先頭に立って、祖国の復興のために尽くさなあかん)

翌十六日午前中に幸之助は再び幹部社員を集め、檄を飛ばした。だがそこに、思わぬ横やりが入った。GHQ(連合国軍総司令部)からの財閥指定と、幸之助の公職追放である。

(そんなアホな……。ウチは世襲とは違うし、三井や三菱とは比較にならない規模や)

その原因は戦時中に軍の命令で設立した、松下造船と松下飛行機にあった。といっても家電が中心の松下電器に、軍艦や戦闘機を造れるはずもない。結局、二五〇トンの木造船を五十六隻、木製飛行機を三機造っただけで終戦を迎えた。

だが、書類の上から見れば紛れもない軍需会社だ。しかも部品製造などの関連会社が多数あったため、実情を知らないGHQには、小さいとはいえまぎれもない財閥と映った。

幸之助は歯ぎしりをしたが、占領軍は当時の絶対的権力者だ。ただでさえ、戦時中に軍に納品した物品への代金が支払われていないのに、松下金属ほか七工場が賠償工場に指定されて接収され、自由な経済活動を禁止されてしまった。

幸之助個人の預金も凍結された。そのため生活費も自由にならず、鳥井信治郎(サントリー創業者・第十二話掲載)ら友人たちからカネを借りてその日をしのぐほどだった。

まさに進退窮まった状態だったが、そこに思わぬ援軍が現れた。労働組合である。

一般にこの時代の組合は経営者に闘争的な態度で臨むことが多く、経営者も組合を敵視しがちだった。ところが設立後まもない松下電器の組合は、「社主を救え!」との号令のもとに署名活動を始めたのだ。これは戦前からの幸之助の家族的経営の賜物だろう。

幸之助自身も交通事情の悪い中で五十数回も上京して指定の不当を訴えた。常務の高橋荒太郎に至っては、百回近くGHQに出頭した。その甲斐もあってか、公職追放についてはまもなく解除された。しかし、財閥指定の解除は昭和二十四年十二月まで待たねばならなかった。

経営の一線に復帰した幸之助だったが、その間松下電器は深刻な経営危機に陥っていた。昭和二十三年から二十四年にかけて、資本金四千数百万の規模に対して、借入金が四億円、支払手形・未払金は三億円にものぼった。いつ倒産してもおかしくない状態だった。

そこにドッジラインという金融引締政策が取られた。日本中をデフレの嵐が吹き荒れ、物がまったく売れなくなってしまった。

松下電器も賞与を支払うどころではなく、給与さえ分割支給になった。それでも足りず、幸之助は断腸の思いで人員整理に踏み切った。幸之助自身も多額の税金を支払えず、「日本一の滞納王」と新聞に揶揄される始末だった。

風向きが変わったのは、昭和二十五年六月の朝鮮戦争からである。この戦争では日本が後方の補給基地となった。兵器以外にもありとあらゆる物資が必要で、この特需によって不況に喘いでいた日本経済は息を吹き返した。

この戦争によって共産主義の脅威を目の当たりにしたアメリカは、日本を再建して共産主義への防波堤にする方向へと、占領政策の舵を大きく切った。この方針に従って、昭和二十七年四月二十八日、日本は独立を回復する。

(戦争の特需頼みではあかん。今この時期に、将来を見据えた布石を打っておかんと)

 幸之助がアメリカを訪問したのは、まだ独立回復前の昭和二十六年一月のことだった。

幸之助の海外旅行嫌いは有名で、戦前に中国、朝鮮、台湾などに数多くの支店や現地法人を設立した時も、義弟の井植歳男に任せきりで、自分は一度も訪問していない。

 初めて体験するアメリカは圧倒的に豊かで刺激に満ちていた。東京では毎晩七時から一時間計画停電していたのに、ニューヨークでは昼間からふんだんに電気を使っている。日本では工員の一ヶ月半分の給料を使ってようやくラジオが買えるが、アメリカでは二日分で足りる。公共施設のトイレの清潔さも驚くほどだった。

 滞在は三ヶ月にも及んだが、出発する時に坊主頭だった幸之助は、帰国する時には髪を七三に分けてポマードを塗っており、出迎えた社員を驚かせたという。

 この訪問によって幸之助は、欧米との大きな差を実感した。

(日本が追い付くためには、向うの技術を取り入れるしかあらへんな)

幸之助は熟考の末に、オランダのフィリップス社を技術提携先に選んだ。

 オランダは日本の九州くらいの面積で、資源もほとんどないが、国民の勤勉と創意工夫で一時ヨーロッパの覇権を争うまでになった。ある意味で日本と似ていた。

 具体的には、両社共同で日本に子会社を設立する。松下の支払う契約料が五十五万ドル、フィリップス社が株式の三〇パーセントを持ち、技術援助料として売上の七パーセントを受取るという条件だった。これは事実上、フィリップス社が無償で三〇パーセントの株式を取得し、七パーセントのコミッションを毎年得るという意味で、絶対に損をしないやり方だった。

「七パーセントは高すぎる。アメリカの企業なら三パーセントが相場だ」

「技術責任者を派遣し、責任ある指導をするから、高くてもそれだけの価値がある」

 堂々巡りの議論が続いた。アムステルダムに赴いて下交渉を行ったのは、大番頭の高橋荒太郎である。高橋の頑張りで五パーセントまで譲歩を引き出せたが、そこで手詰まりになった。ここで幸之助は、予想外の提案をした。

「日本で実際に経営を行うのは、松下電器や。松下のノウハウと販路があれば、必ず成功する。だからこちらも、三パーセントの経営指導料を貰う権利があるはずや」

 相手は面食らった。そもそも技術援助をするのはこちらだ。敗戦国のしかも援助を受ける側が逆に指導料を要求するとは、聞いたこともない話だ。

 だが、最終的にフィリップス社はこの条件を飲んだ。幸之助の交渉力の勝利だろう。そしてこの提携は、両社に大きな利益をもたらすのである。