コラム

「繁栄による幸福を説く経営者 松下幸之助(後編) 第2話」

昭和二十七年十二月、フィリップス社との技術提携により子会社の松下電子工業が誕生した。ここで生産された真空管、ブラウン管、蛍光灯などは市場で高い評価を受けただけでなく、松下の電化製品の品質を大きく向上させることになった。

昭和二十八年は、評論家の大宅壮一が「電化元年」と宣言した年だ。この年から昭和三十年代前半までに、「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」という三種の神器が日本中の家庭に浸透して、人々の生活を大きく変えていった。

松下電器もその波に乗った。昭和二十九年には、売上高は二年前の倍近い一七五億円になっていた。日立、東芝、三菱が当時の家電業界のビッグスリーだったが、そこまであと一歩のところまで迫っていた。

この頃から幸之助自身も、高額納税者ランキングの常連となった。数年前、「日本一の滞納王」と呼ばれたのがウソのようだった。

だが、この時、幸之助の背後から迫ってくる新たなライバルがあった。それは幸之助の片腕であり、もっとも近しい存在だった義弟の井植歳男である。

時計の針を少し巻き戻したい。歳男は淡路島出身で、幸之助の妻むめの(・・・)の弟だった。幸之助が大阪電燈(現在の関西電力)を退社して、ソケットの改良で独立した時、高等小学校を卒業したばかりだった歳男も呼び寄せられて、幸之助を手伝うことになった。

初めて東京に出張所を設けた時には、十八歳の歳男が抜擢されて駐在員として派遣された。以来、松下電器の成長と共に社内で重きをなし、門真に本社を移転した時には役員待遇となった。後に専務となる。

歳男の弟の祐郎と薫も松下に入社しており、薫は常務になっていた。いわば井植三兄弟で松下電器を支えてきたのだ。

その井植歳男が辞表を出したのは、昭和二十一年の末のことだった。一般的には、松下電器の財閥指定と幸之助の公職追放についての責任を取ったとされている。

歳男は松下造船の社長を務めていたから、確かに軍に協力した責任者とも言える。だが、あの時代に軍の協力要請を断ることは不可能だったし、最終責任は社長の幸之助にあるはずだ。どうも建前だけでは説明しきれない事情があるように思える。

ここに興味深い証言がある。経済評論家の三鬼陽之助が、歳男本人から直接打ち明けられたという話だ。それによれば、退社の真相は後継問題であったらしい。

幸之助の一人娘の幸子は、平田伯爵家の正治を婿に迎えていた。正治は東京帝国大学卒業後、三井銀行に入行。その後、退職して松下電器に入社している。

この正治を後継社長に据えるのが既定路線で、歳男もそれに異存はない。ただ、当時の正治はまだ二十代。幸之助の健康に不安があることを考えると、中継ぎの社長が指名されてもおかしくない状況だった。

(自分か、あるいは薫が次の社長では……)

歳男がそう期待したとしても、無理からぬことだろう。

だが、幸之助は公職追放されても社長を辞任しなかった。しかも直接正治にバトンタッチする意向を示した。それを知った時に、歳男の忠誠心がプツリと切れたというのである。

この話が事実かどうかは分からないが、その後の松下と三洋の骨肉の争いを考えると、いかにも人間臭いリアリティがある。

ただ幸之助も、この義弟を丸裸で放り出したわけではなかった。兵庫県加西市にあった北条工場と自転車用ランプの製造権を譲り、その功績に報いている。

歳男の許には、彼を慕う社員たちが、古巣を辞めて付いてきた。彼の設立した三洋電機は、最初は松下電器の下請けのような形だったが、その後ぐんぐん力を付けてきた。

とくに、洗濯機が目覚ましかった。それまでの日本では、攪拌(かくはん)機を使う方式が主流だったが、強い渦巻き状の水流で洗浄する噴流式を開発したのが三洋だった。

この爆発的なヒットにより、洗濯機が一気に日本中の家庭に普及した。先に述べた大宅壮一の「電化元年」宣言は、これを受けてのことだった。

この頃から、松下と三洋の関係は微妙になっていく。当初幸之助は、三洋製品を松下の販売網で売ることを黙認していたらしい。実際、代理店には歳男のファンが多かった。

だがこうなっては、そんな甘いことを言っていられない。幸之助は社内に檄を飛ばし、その翌年に噴流式の洗濯機を販売した。また松下の代理店に、三洋製品の扱いを禁じた。

こうして両社は激しくシェアを争うのだが、この話はここまでにして、井植歳男と三洋電機についてはまた稿を改めてくわしく書くことにしたい。

さて、昭和三十一年一月、幸之助は「松下電器五か年計画」を発表した。企業が長期計画を策定し、公表することがまだ珍しかった時代だ。

「そんなことをしたら、他社に手の内をさらしてしまう」という、今では考えられない反対意見もあった。だが、幸之助は意に介さなかった。

計画の内容は、五年間で売上を四倍増の八百億円にするというものだった。誰もが驚いたが、実際にそれを一年前倒しで達成してしまった。

昭和三十年代の家電製品のマーケットは「三種の神器」への強い需要に支えられ、年率三〇パーセントという凄まじい成長を続けていた。

しかし、家電製品がひととおり普及したこともあって、景気は鈍化していた。また、急激な成長にともなう代償も見えてきた。販売店の疲弊である。並みの経営者なら慢心してもおかしくはない状況の中で、幸之助は冷静に事態を見据えていた。

創業期の伝説では、松下は自転車ランプなどの斬新な製品の開発で業績を伸ばしたことになっている。だが、松下とて、つねに高品質で低価格の製品ばかり開発していたわけではない。時には他社よりも性能が劣る製品を売り出さねばならないこともあった。

それを黙って売ってくれる代理店や販売会社があったからこそ、ここまで成長できたのだ。ところが、その信頼関係に大きな亀裂が走ろうとしていた。