ダイエーの値引き販売に松下電器は強く反発して、製品を卸した問屋を締め付けた。ダイエー側は、なぜ問屋が特定されるのか不思議に思っていたが、やがてその謎が解けた。
製品の内部に特殊な塗料で製造番号を記していたのである。肉眼では見えないが、ある光線を当てると番号が浮かび上がる仕組みだった。
それを知った中内は、派手な形でその秘密を暴露した。昭和四十二年十月三日、関西を視察中の参議院特別委員会所属の四人の議員を店舗に案内し、実演をして見せたのだ。
この影響は大きかった。マスコミは一斉に松下電器を叩き、消費者もダイエーに味方した。これによって、松下電器のブランドイメージは大きく損なわれた。しかし幸之助は断固として自分の信念を曲げなかった。
昭和四十五年には、消費者団体による松下製品のボイコット運動が全国的に始まった。その理由は、松下電器が不当に製品の高値を維持している、というものだった。
さらに公正取引委員会も、カラーテレビの価格を店頭価格まで値下げする通達を出すよう、通産省に要請した。まさに四面楚歌だった。
このタイミングでダイエーは、自社ブランドの十三型カラーテレビ「ブブ」を投入した。他社製が十万円するところ、六万円を切る衝撃的な価格だった。消費者はこれに飛びつき、松下はさらに苦境に立った。
この頃の幸之助は、心労のあまり不眠が続いていた。やり切れない思いだった。ナショナルランプ以来、良質な製品を安価に提供してきた。自分こそ、消費者の利益のために尽くしてきたという自負があった。
だが、このままでは、経営さえ傾きかねない。断腸の思いで幸之助は、値引き販売を認める決断を下した。世間はこれを歓迎した。そして翌年、新型のカラーテレビをこれまでの十五%引きの価格で発売した。追撃の勝負手である。これがスマッシュヒットになった。
「ブブ」はダイエーブランドとは言いながら、製造は中堅の電機メーカーに委託しており、しかも松下をはじめ他社製の部品が使われていた。業界は「ブフ」包囲網を布いた。
結局松下電器はカラーテレビのシェアを回復しただけでなく、逆に伸ばしたのだった。
もっとも、この争いの勝者が松下だったわけではない。中内の掲げる価格破壊の旗印に一度は屈したのは事実だったし、傷ついたブランドイメージの回復は容易ではなかった。
かといって、中内の勝利とも言い切れない。流通業とメーカーの両立は難しく、ダイエーは最終的に家電製品の製造から撤退している。
また、より重要なのは、時間が経つにつれ、中内の価格破壊の本質が見えてきたことだ。
価格の決定権は小売り側が持つという中内の主張は、正確には、規模の優位を持つ量販店の論理だった。零細な個人商店には何の恩恵もないどころか、大規模商業施設の前に、まるでブルドーザーに踏みつぶされるようにして潰れていった。
「ブブ」騒動からしばらくして、幸之助は京都の別邸真々庵に中内を招いた。茶室で二人きりになり、自ら茶を点ててもてなした。
「中内さん。あなたもここまで店を大きくされたのだから、もう覇道ではなく、王道を歩まれたらどうですか」
中内は「そうですか…」とだけ答えて、後は無言だったという。外は雨だった。幸之助は傘を差しかけて、玄関まで中内を送った。この後、二人が会うことはなかった。
昭和四十四年七月に義弟の井植歳男が没した。まだ六十六歳の若さだった。その四年後、幸之助は相談役に退いた。会長には長年の腹心の高橋荒太郎、社長は女婿の松下正治。
この頃から幸之助は、積極的にマスコミに出て、社会的な発言をするようになっていた。
そして昭和五十二年年一月十七日、突然の記者発表があった。高橋会長が引退して、松下社長が会長に、そして新社長に山下俊彦が就任するという。
山下は五十七歳の若さで、役員二十六人の中で序列は下から二番目。子会社の再建に手腕を示した実績があるとはいえ、異例の大抜擢だった。
このニュースは財界だけでなく、世間を驚かせた。誰もが山下の名を知らなかった。だが、幸之助の行った若返り人事ということで、好感をもって受け止められた。
しかし実際は、この人事を主導したのは松下正治だったらしい。幸之助は正治が婿入りした当初から厳しく鍛えてきた。社長を譲った後も実権は会長の幸之助が握っていた。
幸之助が相談役に退いた後も、役員はすべて幸之助の子飼いだった。彼らは何かあると、幸之助にお伺いをたてた。VHS対ベータマックスで知られる家庭用ビデオデッキの規格争いでも、VHS陣営に付く決断をしたのは相談役の幸之助だった。
しかし時代は容赦なく進み、経営環境も日に日に変化している。老いた重役たちは家電市場が爆発的に伸びた時代を忘れられず、進取の気性に乏しかった。そこで正治は若い山下を正面に立てて、経営陣の大胆な若返りを進めようとしたのだ。
山下の抜擢にはもう一つの大きな意味があった。創業家以外から初の社長就任である。
幸之助は正治の息子の正幸を後継社長に考えていたらしい。若い時代に両親と兄姉をすべて喪った幸之助には血族に対する強い執着があったのだろう。それに船場で丁稚奉公から叩き上げた感覚では、家業を血族に継がすのは当然のことだった
だが正治には創業家出身の社長へのこだわりはなく、息子の正幸の資質についても冷静に見ていたようだ。山下への批判の矢が飛んでくると、正治が陰に陽にかばった。
山下は期待に応えて辣腕を振るった。彼の時代に松下電器は家電だけでなく半導体や事務機器にも進出し、総合電機メーカーに生まれ変わった。彼が社長在任の九年間に売上は四倍強、経常利益は五倍にもなったのである。
幸之助には、あるいは複雑な思いがあったかもしれない。だが、この頃には幸之助の視線は経営の現場を離れ、別の方向を見ていた。
一つは日本の行く末であり、もう一つは人間存在そのものである。このうち前者が松下政経塾の設立となり、後者がPHP運動となっていく。