コラム

「銅(あかがね)の巨人 住友理兵衛 第4話」

住友政友と蘇我理右衛門の義兄弟が住友家の基礎を築いた後、理右衛門の長男で政友の養子になった住友理兵衛友以(とももち)が、それをさらに発展させた。

 理兵衛友以の時代に住友家は大坂に進出し、銅精錬業界で不動の地位を確立した。

その理兵衛が寛文二年(一六六二)に没した後、息子の吉左衛門友信が後を継いだ。友信以降、住友家の当主は代々吉左衛門を名乗った。

友信の時代に蘇我家の銅精錬業もすべて吸収し、住友家はさらに発展した。全国的に鉱山の発見が相次ぎ、銅の年間輸出高は、貞享年間に五百万斤(三千トン)をこえた。

幕府は銅貿易商の株を、全国で十六設定した。このうち大坂が十、和歌山が二、京都、堺、長崎、豊後が各一だったが、このうち住友家が四株を占めていた。

友信は、鉱山経営にも手を伸ばした。これによって、鉱石の採掘、銅の精錬、銅の輸出と、銅ビジネスにまつわるすべての工程を一手に行うことができる。

秋田地方では、新たに阿仁鉱山と尾去沢鉱山が盛んになっていた。友信はこれに出資し、その経営のために江戸の中橋に支店を設けた。

さらに平安時代初期に開かれ、かつて西国一の銅山と謳われた備中(今の岡山県)の吉岡銅山の採掘も引き受けた。もっとも吉岡は老山で、数百か所もある坑道の至るところで地下水が溢れており、これまで多くの請負業者が挫折してきた難山だった。

住友は、疎水坑道(そすいこうどう)の掘削、という大掛かりな工法に取り組んだ。喩えて言えば、瓶にたまった水を狭い上の口から少しずつ汲みだしていたのが、従来の方法だった。それを瓶の横腹に穴を空けて、一気に水を抜こうというのだ。

とはいえこれはあくまで机上の理屈で、実際に現場で成功させるのは極めて難度が高い。工事費用と幕府に納める運上金を考えると、はたして事業として成り立つのか。

ここが鉱山経営の難しさだった。水を抜いた先に新たな鉱脈が眠っていれば利益はでる。しかし、その保証はない。そもそも水が確実に抜けるかどうかも分からない。

鉱山師(やまし)とかヤマかけという言葉が、賭博師と同じ意味で使われるようになったのは、鉱山事業のこの種の不確かさのためだろう。

まさに吉岡銅山で難工事が行われていた時、事件が起こった。分家して両替店を営んでいた友信の弟友貞が、幕府から預かった為替を紛失したのである。

当時の感覚では、弁償すればいいというものではない。友貞の家は身代取潰しとなり、兄の友信も監督責任を問われて隠居するはめになった。

 

父の友信が志半ばで退いた後、家督を継いだ長男の友芳はわずか十六歳だった。この友芳の時代に、住友は最盛期を迎える。

おそらく最初のうちは、隠居の父友信がひそかに後見していたのだろう。だが友芳自身も相当な人物だったようだ。

伝記によれば、人格に落ち着きがあり、愛情深く、質素倹約をして奉公人と苦楽を共にしたから、住友家の人々はみな友芳に心服していたという。

友芳の代で特筆すべきは、伊予国(現在の愛媛県)別子銅山の発見だった。

この知らせをもたらしたのは、吉岡銅山の長兵衛という渡り鉱夫だった。長兵衛は東北から九州まで十一カ国の鉱山を渡り歩いていたため、鉱脈の見分け方を知っていた。

長兵衛はその頃吉岡で働いていたが、水抜き工事の間、伊予の立川銅山に出稼ぎに行っていた。その立川銅山の南側にあたる別子に、有望な山色が見えた、というのである。

水抜き工事が終わり、まもなく採掘が再開されると聞いて、長兵衛は吉岡に戻ってきた。そして支配人の田向十右衛門にその話をした。

十右衛門は即座に現地調査を決断した。同じ山脈の南側なら地下で鉱脈がつながっている可能性が高い、と考えたのだ。当時の別子は僻遠(へきえん)の地で、調査には大変な苦労がともなったが、十右衛門は地表に露出している鉱脈を発見し、鉱石を持ち帰った。

大坂の本店で吟味の上有望と判断され、早速幕府に稼業請負の出願をした。この頃の制度では鉱山自体の買収はできず、運上金を払って採掘を請け負うという形を取った。

同じ頃、地元の人間からも同様の出願がされていたが、長年銅の採掘と精錬を手掛けてきた技術力と資本への信用は高く、採掘権は住友の手に落ちた。出銅の一割三分の運上と諸費用を納めるという条件だった。

採掘の前に麓まで道を拓かねばならない。樹を伐り岩を砕き土を均して、九里(三十六キロ)もの道を造成し、鉱夫たちの住居も整えて、ようやく山開きとなった。

実際に掘ってみると、別子は宝の山だった。初年度こそ、三万二千斤あまりの出銅量だったが、翌年には六十万斤と急増し、その三年後に百万斤を超えた。開山から九年目の元禄十二年(一六九九)には、ついに二百五十万斤を記録した。

別子では多くの鉱夫が働いていたが、妻子持ちも多かった。さらに勘場(事務所)には、支配人以下、番頭、手代、小僧などが詰めており、総計で数千人にもなった。

彼らの住む長屋、飯米と薪炭を保管する倉庫、生活必需品を販売する商店、さらに娯楽施設などもあり、深山の一角に突然町が出現したようなものだった。

この別子銅山が最盛期を迎えた元禄年間には、日本の銅輸出量は年間千万斤(六千トン)にもなっていた。友信の時代と比較すると倍増していた。

これは単に産銅量が増えたためだけではなかった。当時、貿易によって金銀が海外に流出し、また新たな鉱山の発見もなく、幕府の保有する金銀の量は減っていた。

そこで勘定奉行荻原重秀が、従来よりも金銀の含有量が少ない貨幣を鋳造した。ところが外国の商人はこれを嫌い、銅での決済を求めるようになったのだ。

とはいえ、銅も無限に掘り出せるわけではない。この元禄十二年を頂点として、別子の産銅量は漸減していく。その事態に、住友家の当主たちはどう対処したのだろうか。