コラム

「洋酒文化の伝道師 鳥井信治郎   第3話」

赤玉ポートワインで成功を収めた信治郎は、社内外の反対を押し切って、ウイスキーの製造に乗り出した。赤玉で得た利益をすべて投げ打つ覚悟だった。

 ここで登場するのが竹鶴正孝である。竹鶴は広島の酒造家の息子で、大阪高等工業の醸造科で学んだ。以前から洋酒に興味を持っており、アルコール蒸留会社の摂津酒造に入社した。社命を受けてスコットランドに留学し、グラスゴー大学で有機化学を学び、ウイスキー蒸留所で実習を受けた。

ところが、現地で恋に落ちて結婚した妻のリタを伴って帰国した時には、摂津酒造は業績が傾いて、ウイスキーに参入する余裕はなかった。

一方信治郎は、三井物産ロンドン支店を通じて、現地の専門家の派遣を依頼していた。ところが、わざわざ招聘しなくても、日本に竹鶴という適任者がいるはずだ、という返事があった。

摂津酒造は寿屋の取引先であり、社長とも親しく、竹鶴とも面識があった。竹鶴はすでに摂津酒造を退職していたが、信治郎はそこに日参して口説き落とした。年俸四千円、十年契約という破格の待遇だった。

こうして最強のコンビで、日本初の本格的ウイスキー作りが始まった。蒸留所の場所は、竹鶴は北海道を主張したが、信治郎は大坂と京都の境の山崎で譲らなかった。

北海道では、原料の搬入や商品の搬出に費用がかかりすぎる。山崎は河川が合流する地にある渓谷で、水が良く、夏に霧が発生するという、スコットランドに似た気候だった。

頼りは竹鶴のノートだけで、何もかもが手探りだった。巨大なポットスチル(蒸留釜)は国内で製造したが、それ以外の機械はすべてイギリスに発注した。工場の建設費は二百万円にものぼった。

最初の仕込みが行われた。水に漬けて発芽させた大麦を乾燥させ、ピート(草炭)を焚いて香を付ける。次に乾燥した麦芽を粉砕機にかけ、湯に浸しておくと、麦のでんぷん質が糖化する。そこに酵母を加えて発酵させ、さらにポットスチルで蒸留して、ようやくウイスキー原酒ができるのだ。これをホワイトオークの樽に入れて保存する。

しかしこれは、この後長く続く苦難の道の、最初の一歩に過ぎなかった。毎年膨大な大麦が工場に搬入されたが、まるで巨大な怪物の腹に収まったようで、商品は一向に出荷されなかった。

信治郎はその間、片時も休むことはなかった。

(ウイスキーが軌道に乗るまで、他で稼がんとあかんな)

 そこで開発したのが、喫煙者用の半煉り歯磨き「スモカ」だった。世間ではまだ粉歯磨きが主流であり、ヤニまみれの歯が白くなるという宣伝も受けて、それなりに売れた。

 さらにビール業界に参入した。横浜で「カスケードビール」を製造する日英醸造が売りに出されていると聞き、即座に落札した。百一万円だった。

ぶどう酒、ウイスキーの次はビールというのは、自然な流れで、しかもウイスキーと違い、仕込めばすぐに売れるという利点があった。信治郎は即座に「新カスケードビール」を投入した。他社が一本三十三銭のところ、二十九銭にした。

これは本物を作るかわりに値段も妥協しないという、従来の姿勢からすると珍しいことだった。当時のビール業界は寡占状態で、麒麟、大日本、日本麦酒などの大手がシェアを握っており、その壁を意識せざるを得なかったのだろう。

一方、山崎工場の原酒はピート(草炭)の香がかなり強く、信治郎にとって満足できる出来ではなかった。大学の醸造学の権威によれば、竹鶴が最初に使った酵母にも問題があるということだった。

信治郎は大学で醸造学を学んだ人材を新たに雇い入れるなどして、改良に努めた。だがこれは、信治郎と竹鶴の間に、小さな亀裂を生むことになった。

そうしている間も、資金繰りは待ったなしだった。毎年仕込みだけして、売上がまったく立たないウイスキーは、社内のお荷物だった。

(大将、いつまで寝かせたらええんですか。このままでは、ウイスキーがでける前に、会社の方がえらいことになりまっせ)

社内から噴出する声を、これ以上無視できなかった。信治郎は、五年貯蔵のモルトを商品化することにした。こうして、昭和四(一九二九)年、日本初の本格国産ウイスキー「サントリーウイスキー白札」が発売された。

「断じて舶来を要せず」という自信満々のコピーで、値段もジョニーウォーカーの赤が一本五円のところ、四円五十銭にした。

だが、「焦げ臭くて飲めない」と、評判は散々だった。これはウイスキー独特の薫香(スモーキーフレーバー)だったが、当時の日本人には馴染みがなかった。実際信治郎にも、ピートの焚き過ぎのように思えた。そこで翌年、日本人向けにブレンドした「サントリーウイスキー赤札」を発売したが、これもあまり売れなかった。

この頃から、信治郎と竹鶴の考えの違いが明らかになっていた。あくまで本場のスコッチを理想とする竹鶴に対し、信治郎は日本人向けの味にこだわった。

ウイスキーの退勢を挽回すべく、信治郎は、「トリス・カレー」「トリス胡椒」台湾紅茶を原料とした「トリス紅茶」などの商品を次々に売り出した。

さらにビール事業のテコ入れのために、竹鶴を山崎蒸留所と兼務で横浜の工場長に任命した。新商品「オラガビール」は、値段をさらに下げて一本二十七銭にした。「オラガ」は大胆に市場を荒らしまわったが、思わぬところで足をすくわれた。

自社瓶を回収して再利用するのがビール業界の慣行だったが、後発でシェアの少ない寿屋は、それでは瓶が不足してしまう。そこで他社の瓶に自社のラベルを貼って使ったのだが、ここにクレームがついた。これは裁判になって、寿屋は敗訴した。

八方ふさがりだった。信治郎と寿屋に、最大の試練が訪れようとしていた。