コラム

「遅れて来た革命家 大隈重信   第3話」

大隈重信は遅れて来た志士だった。彼の出身である佐賀藩が、幕末のギリギリの段階で倒幕に踏み切ったからだ。しかし大隈は外交問題に手腕を発揮して、たちまち新政府内で頭角をあらわしていった。

そこで直面したのが、貨幣制度の問題だった。当時の日本では、中央政府と地方の藩がそれぞれ金銀の含有率の異なる貨幣を発行しており、貿易上の問題となっていた。

さらに財政難に悩む政府は、太政官札という金銀と交換できない紙幣(不換紙幣)を大量に発行していた。これが不人気で額面どおりに流通せず、国内経済も混乱していた。

結局、貨幣の発行権を中央政府が握り、統一した貨幣制度を定めるしかない。また太政官札は廃止し、金銀の保有高に裏付けられた紙幣(兌換紙幣)に切り替える。

大隈のこの考えは、当時の西洋的な財政理論として、実に正論だった。しかしその正論の前に立ちはだかる財政家がいた。越前出身の由利公正(三岡八郎)である。

由利は越前藩の財政担当者として賢侯松平春嶽に認められ、坂本龍馬の紹介で世に出た。由利は大坂の豪商からカネをかき集めたり、太政官札の発行で急場をしのいだりして、成立早々の明治新政府の財政を支えた。

大隈はこの由利の手法に、正面から異を唱えた。この両者の争いは、由利が辞表を出すことで決着が付いた。この結果、大隈は会計官副知事(財務次官)も兼務し、外交と財政の実務を一手に握ることになった。

この頃大隈は、築地西本願寺の隣にある五千坪の地所のある邸宅を政府から貰って住んでいた。ここに長州の伊藤博文と井上馨、薩摩の五代友厚らが始終出入りして、飯を食い酒を飲んで、深夜まで車座で議論をしていた。その様子がまるで水滸伝の豪傑たちのようであったから、大隈はこれを築地梁山泊と称していた。

彼ら藩を越えて集まった有能な若手の議論の中から、明治初期の諸改革が練られ、実行されていった。もちろん、明治初期の制度改革のすべてを大隈が実行したわけではないが、貨幣の統一をはじめ、かなりの部分に関わったのは事実である。その意味で、近代日本の諸制度の骨格を造った一人であることは間違いない。

だが、大隈の前には見えない壁があった。当時は長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛、大久保利通という維新の三傑が健在だった。彼らには革命の功績があり、背後にも勢力があった。彼らは大隈の有能さを認めて用いたが、最後に信用するのは自藩の同志だった。

例えば第二の革命ともいうべき廃藩置県に当たって、大隈は事前に知らされていなかった。この大事は木戸を中心とする長州系の一部の間で極秘に練られ、最終的に薩摩の西郷隆盛が承諾して実行に移された。事前に洩れると、暴動が起こりかねなかったからだ。

この種の傍系の悲哀を味わったのは、佐賀系と土佐系だった。薩摩と長州は仲が良くはなかったが、共通の利益を守るためには結束して、革命に遅れてきたこの二藩を排除した。

それに対して、気骨のある者は辞表を叩きつけた。中には反政府運動を始める者もいた。また、割り切って薩長の下風に立ち、権力のおこぼれに預かって満足する者もいた。

大隈はそのいずれの道も取らなかった。自分の能力に対して、人一倍自負心の強かった大隈は、権力の階段をなおも登ろうとしたのである。それが悲劇の遠因になった。

ちょうどこの時、征韓論闘争が始まった。この韓国を征伐せよという議論を主唱したのは西郷で、佐賀の江藤新平と副島種臣、土佐の板垣退助後藤象二郎らが積極的に賛成した。

反対派の巨頭は大久保利通である。公家の岩倉具視や、薩摩と長州の若手官僚が大久保を支持した。大隈もその一人だった。財政を握っている立場からしても、対外戦争になれば国家が破産することは明らかだった。

この大隈の政治感覚は正しかった。征韓論派の参議が大量に辞職した後に訪れた危機を、大久保は卓越した政治手腕で乗り越えた。江藤新平が佐賀の乱で敗死したのを皮切りに、萩、熊本、秋月で次々と反乱が起こったが、近代兵器で武装した新政府軍には敵わなかった。そして維新最大の功労者の一人だった西郷も、西南戦争で敗れて城山で自刃した。

この瞬間、大久保は日本最大の権力者となった。長州の木戸孝允は、この直前に病死していた。もし大久保が長命していたら、大隈はその下で存分に腕を振るい、場合によっては、その後継者たり得たかもしれない。しかし大久保は西南戦争が終わって間もなく、紀尾井坂で暗殺されてしまう。

ここにおいて明治政府は、第二世代に託されたのである。その中でも中心となったのは、大隈と長州の伊藤博文だった。大隈と伊藤は、築地梁山泊以来の盟友関係にあった。だが権力の座を目前にして、二人の関係は微妙に変化していた。特に伊藤は木戸亡き後の長州閥の代表者として、その権益を守る立場にあった。

二人の国家観の違いは、民権運動に対する姿勢にあらわれた。征韓論で下野した土佐の板垣退助らは、国会開設を求める運動を始めていた。武力による反乱の時代が終わり、言論とデモによる反政府運動の時代が始まろうとしていた。

伊藤をはじめ藩閥政府の面々は、基本的に、民権運動に否定的だった。少なくとも、次期尚早だと考えていた。彼らの頭には江戸時代以来の愚民観があり、百姓や町人に選挙権を与えたら、とんでもないことになると考えていた。

しかし大隈はかなり早い段階から、日本も国会を開設して議会政治を行うべきだと考えていた。大隈は海外渡航の経験こそなかったが、外交を担当していたため、欧米の政治制度にも詳しかった。

だが、最も大きな影響を与えたのは、福沢諭吉だろう。福沢は当代きっての啓蒙思想家で、維新後は官途に就かず、教育と言論を自分の使命と心得ていた。

大隈と福沢は、明治七(一八七四)年頃に知り合って意気投合していた。後の大隈のブレーンには、慶應義塾出身者が数多くいた。この二人は政治家と言論人という意味では対照的に見えるが、日本で最初期に英語を学び、海外の知識を取り入れようとした点では共通していたのである。