コラム

「繁栄による幸福を説く経営者 松下幸之助(前編) 第5話」

順調に業績を伸ばしてきた松下電器だったが、昭和恐慌の大波を受けて、倉庫には在庫の山ができた。幹部は生産の半減と人員削減を提案した。それに対して、幸之助はきっぱりと言った。

「従業員は一人たりとも解雇してはならない。工場は半日勤務として、生産は半減。しかし、従業員には日給の全額を支給する。その代わり、残りの半日で、ストック品の販売に取り掛かること」

 この方針はその日のうちに、全従業員に告げられた。誰もが喜びの声を挙げて、ストック品の販売に全力を尽くすことを誓った。

 一人の人間の力は知れたものだが、大勢の人間が結束すると、凄まじい力を発揮する。体調を崩して西宮で療養中だった幸之助の許に、毎日報告が届いた。その数字は眼を見張るもので、わずか二ヶ月ほどで、倉庫にあった在庫の山を売り切ってしまった。それどころか半日勤務を撤廃して、工場をフル稼働させなければ間に合わなくなった。

 これは幸之助にとっても、従業員にとっても、非常に大きな成功体験となった。松下は昭和恐慌という大嵐をものともせず、さらに成長を続けて行った。

 世界恐慌に対して、当時の浜口雄幸内閣は緊縮財政一辺倒だったが、幸之助はこれに批判的だった。例えばその頃各省庁では経費削減のために、公用車を削減するか廃止していた。そうすると、自動車販売店は売上が減少し、メーカーや下請けの部品工場に至るまで、すべてに影響が及ぶ。いわば、買い控えによって、不況が連鎖し拡大していくのだ。

 これに対して、不況の時ほど積極的にモノを購入して、経済を回していかなければならないというのが、幸之助の信念だった。これは大規模な公共工事によって失業者に仕事を与えた、アメリカのニューディール政策の考え方に近い。実際、大不況の中で、あえて松下は社用車を購入している。

 昭和六(一九三一)年の末には松下は、従来の電気配線器具に加えて、電熱、ラジオ、ランプ、乾電池の四部門を持ち、二百種以上の製品を製造していた。

 この頃、幸之助に精神面で大きな転機があった。知人の熱心な勧めである宗教団体の施設を見学に行き、その壮大さと繁栄、信者の献身に強い印象を受けたのだ。

帰りの車中でずっと物思いにふけっていた幸之助は、帰宅後も深夜まで考え続けた。そして、閃くものがあった。

(物質的な繁栄と精神的な豊かさは、車の両輪だ。この松下の事業も、宗教と同じく聖なる事業だ。日本中にあまねく繁栄を届けるが、松下の使命だ)

 この考えは、後に「水道哲学」と呼ばれた。水道の水は生活に欠かせない貴重なものだが、通りがかりの人が水道の水を飲んでも誰も怒らない。それは水道の水が極めて安価で、いつでも蛇口をひねれば飲めるからだ。

それと同じように、生活に必要な電化製品を無尽蔵に生産して、非常に安く供給できれば、国民の生活は限りなく豊かになる。それこそ、産業人の使命だ。

単にモノを売ってカネを儲ければいいという商売人が多かった中で、幸之助は自らの経営理念を明確に打ち出したのである。

この信念に従って、幸之助は、看板商品の角形ランプを値下げしている。当初はランプ一円二十五銭(約五千円)、電池二十五銭だったが、大量生産によるコストダウン分をその都度価格転嫁し、昭和十二年にはランプ一個三十銭、電池十銭まで下げている。ここに至って、ローソクは完全に市場から駆逐されてしまった。

昭和七(一九三二)年五月五日、幸之助は全従業員を大阪中央電気倶楽部の講堂に集め、自らが悟った松下の真の使命を訴えた。これが第一回の創業記念日である。話を終えた後の若い店員たちの熱狂ぶりは凄まじかった。これは後のPHP運動や松下政経塾設立にもつながる、大きな節目だった。

翌年には本店を大阪近郊の門真村(現門真市)に移転した。これまでの大開(おおびらき)町では、急速に拡大する事業規模に追い付かなくなっていた。従業員だけでも、この一年間で千二百人から千八百人に増えていた。

当時の門真村は大阪郊外で、一面にレンコン畑が広がる農村地帯だった。そこに区画整理をして売りに出された地所があった。京阪電車門真駅付近の三千五百坪だ。

門真村は大阪市から見ると北東に位置し、いわゆる鬼門にあたる。縁起が悪いから止めた方がいいと、忠告する者もいた。幸之助も一時はそうかな、と思った。しかし、考え直した。

(そもそも北東が鬼門やというんなら、日本列島はどうなるんや。北東に向かって延びとるやないか。かまわん、気にせんとこ)

パナソニックホールディングスの本社は現在も大阪府門真市にあるが、その基礎はこの時の決断によって築かれたのである。

順風満帆に見えた松下電器だったが、大きな危機が訪れようとしていた。いや、それは正確には日本の危機だった。

昭和十二(一九三七)年に日中戦争が勃発。停戦のメドも立たないまま、広大な中国大陸で戦争は泥沼化していった。昭和十六(一九四一)年には太平洋戦争が始まった。

松下電器も軍の要請を受け、航空機用の電装品、無線機、方向探知機、レーダーなどの生産を始めた。これは戦後、松下がGHQから財閥指定される一因となった。

軍需品の生産は一時的な業績向上をもたらしたが、それも長くは続かなかった。戦争が長期化するにつれて、燃料を始めあらゆる物資が不足し、国民生活は窮乏した。当初は快進撃を続けた日本軍は、圧倒的な物量の米軍に次第に圧倒され、ついに昭和二十(一九四五)年八月十五日、敗戦の日を迎えた。

だが、日本国民も松下幸之助も、あきらめてはいなかった。焦土の中から新生日本を建設しようと、意気に燃えていたのである。

(後編に続く)