松下の砲弾型自転車ランプは、特殊な組立て電池を用いることで、従来の十倍以上も長もちする画期的な製品だった。
だが、電池ランプはすぐに切れると思い込んでいる問屋は、はなから聞く耳を持ってくれない。そもそも最大の長所である組立て電池が、松下以外では扱っていなかったから、
(あかん、あかん。そんなん、電池が切れても取り換えが不便やないか)
幸之助はぼうぜんとした。しかし、すでに毎月二千個の生産体制を組んでしまっている。そこで知恵をしぼった。こうなったら問屋ではなく、小売店に直接働きかけようと思った。
商売のセオリーからすれば、メーカーが直接小売り店と取引するのは、数個単位の注文に応じてその売掛金の管理もすることになり、手間が大変煩雑になる。しかし、背に腹は代えられなかった。
(どうせこのままでは在庫の山だ。思い切って千個くらい見本に配ってもいい。良い品だとお客様に分って貰えれば、必ず売れる)
幸之助は新規にセールスマンを三人雇い、大阪中の小売店を回らせた。タダで見本を置いて、店頭でデモンストレーションしてもらう。実際に三十時間以上点灯することが分かったら、注文をして下さい、代金はそれからでいいです、という条件だった。どの店も、太っ腹な宣伝方法だと歓迎した。
毎日、彼らの書く営業日報が積み重なっていく。見本を置いた店を次に回ると、必ず二個か三個の注文をくれた。二、三ヶ月もすると、セールスマンの訪問を待ちきれない小売店から、電話やハガキで注文が来るようになった。この頃には、月間二千個は小売店だけでさばけるようになっていた。
そうなると、問屋の方でも、松下のランプを扱わざるを得なくなった。この機会を捉えて問屋にも営業攻勢をかけ、直取引の小売店を引き取ってもらった。
同じ年の九月に関東大震災があった。東京はほとんど焼野原となり、十五、六軒あった取引先も大きな被害を受け、集金不能や取引中止となった。さいわい井植歳男ら二名の駐在員は、自力で大阪に戻ってきた。
震災では松下にも大きな被害があったが、その後は逆に復興による好景気に沸いた。取引先も商売を再開し、東京出張所も新たに人を遣って再開した。販売も順調で、電池ランプを専門に製造する第二工場も新設した。
大正十四(一九二五)年には大開町の有志から頼まれて、区会議員選挙に立候補した。その頃幸之助は健康を損ねて床についていたから、一度は断ったが、どうしてもと言われて承知した。選挙戦は予想以上に激しくなり、幸之助も病床を払って選挙運動に駆け回った。結果は二十人中、二位当選だった。幸之助が地元から大きな信頼を集めていたことを示すエピソードだ。
昭和二(一九二七)年には、新商品の角形ランプを売り出した。以前の砲弾型ランプはあくまで自転車用だったが、これはどこにでも吊り提げることに出来る小型のランプで、非常に用途の広いものだった。
この商品は初めて「ナショナル」のブランド名を冠したという意味でも、画期的だった。幸之助は新聞でフト見た「インターナショナル」という語に惹かれ、辞書を引くと、「ナショナル」だけでは「国民の、全国の」という意味になることを知った。
(よし、これで行こう!)
文字通り国民的な商品を目指したのだ。売価は卸値で一個一円二十五銭(約五千円)。幸之助は販売にあたって、一万個の見本を無料で配布する計画を立てた。砲弾型ランプの十倍の数だ。まだ町工場のレベルである松下にとって、社運を賭けたプロジェクトだった。
幸之助は、電池の供給元である東京の岡田電気を訪ねて、こう切り出した。
「そういうわけで、見本用に新型ランプを一万個配布しますから、それに使う乾電池一万個を無料で提供してくれませんか」
岡田社長は眼を白黒させた。松下が見本を無料配布するのは勝手だが、どうしてウチまでそれに付き合わねばならないのか、と思った。
「岡田さん、今は四月です。私は年内に新型ランプを二十万個売り切ってみせます。ですから、それが成功したら、乾電池一万個分を値引きして下さい。その代わり二十万個に一個でも欠けたら、一切値引きなしで結構です」
それを聞いて岡田社長は破顔して、承知した。二十万個も販売してくれるなら、一万個分の値引きなど何でもない。
さて、その結果はというと、一万個も配る必要はなかった。ものの千個も見本を配った時点で、次から次へと注文が舞い込んだ。そして十二月に集計すると、約束の二十万個をはるかに上回る四十七万個を販売していた。岡田社長は正月の二日に紋付羽織の礼装に身を固め、はるばる大阪までやって来て、感謝状と現金を幸之助に手渡した。
ちなみに、その十五年後の昭和十七(一九四二)年には、松下は一ヶ月三百万個の電池を販売している。家庭用の電化製品が短期間に急速に普及したことと、松下がその波に乗って事業を急拡大したことが分かる。
ランプだけではない。角形ランプと時を同じくして、電熱器、アイロン、コタツ等の電化製品を次々に販売し、昭和三(一九二八)年には第三工場を建設して、従業員三百人を擁するまでになっていた。
しかしそこに、アメリカのウォール街の株価暴落をきっかけとする、未曽有の世界恐慌が襲った。日本でも中小企業が次々に倒産した。大卒者の三分の一が就職できず、「大学は出たけれど」などと言われた。労働運動も激化した。一時は三井三菱をしのぐと言われた神戸の鈴木商店が、経営破綻をしたのもこの頃だ。
ともかく、モノが売れない。松下もその例外ではなく、倉庫には在庫が積み重なった。
「このままでは生産を半減し、人も半分に減らすしかないです」
幹部たちはそう提言したが、幸之助は首をタテには振らなかった。