大開(おおびらき)町の借家は一階が三間、二階が二間で、六坪の前栽(せんざい)まであった。これまでの数倍の広さだ。幸之助は二階を住居にして、一階の床はすべて落として工場にした。
扇風機の碍板(がいばん)製造のおかげで、経営は安定した。幸之助は持ち前の創意工夫を発揮して、新製品を次々に開発していった。その第一号がアタッチメントプラグ、通称アタチンだった。
当時の一般家庭が電灯会社と結んでいたのは、「一戸一灯契約」と呼ばれるもので、各家庭には電灯用のソケットが一つだけしかなかった。ところが、アイロンや電熱器などが普及するにつれ、それでは不便になっていた。
アタチンとは、天井にある電灯の差し込み口に取り付けてコードを延長し、手許の電化製品を使えるようにしたものだ。
次は二灯用差し込みプラグだ。これはいわゆる二股ソケットで、一つしかない電灯用のソケットから二つのコードを引けるようにしたものだ。そのおかげで、電灯とアイロンを同時に使用したり、部屋全体を照らす灯と手許の作業用の灯とを使い分けたり出来るようになった。非常に便利な製品だった。
どちらも他社の製品に比べて三割から五割も安く、性能も良かったため、たちまち評判になった。幸之助は生涯に多くの発明をしているが、世の中にない独創的な商品を生み出すよりも、すでにある商品を改良して普及させるタイプだった。
注文が殺到したため、家族だけでは手が回らなくなり、四、五人の職工を新たに雇った。この時幸之助はソケットに使う煉物(ねりもの)の調合方法を、新入りの職工にも惜しみなく教えた。それを見たある同業者はこう忠告した。
「松下君、それは危険だ。そんなことをしては、企業秘密を世間に公開するのと同じだ。同業他社にたちまち真似をされて、今に大損害をこうむるぞ」
しかし、幸之助の考えは違った。煉物の調合を自分だけでやれば、確かに秘密は保たれる。一方で自分の調合能力が、工場の生産を左右してしまう。万が一自分が倒れれば、生産自体がストップしかねない。
(それよりも、思い切って人を信じよう。信じれば、かえって人は裏切らないものだ)
これは幸之助の生涯を貫く人間観だった。幸之助は生まれつき病弱で、自分でもその体質を自覚していた。だから、大きな仕事をするためには、人を信じて人に任せるしかなかった。それは単なるお人好しではなく、現場で汗を流し苦悩した末につかみ取った、血のにじむような哲学だった。
アタチンと二股ソケットの成功によって、「松下は工夫した便利な商品を、他よりも安く作るところだ」と世間で評判になった。工場は増産に次ぐ増産で、従業員もたちまち二十人になった。
幸之助は月一回東京に営業に出掛けたが、まもなく義弟の井植歳男を駐在員として東京に常駐させた。井植はまだ十七歳だったが、幸之助の薫陶を受けて、すでにその商才の片鱗を見せ始めていた。各地に代理店を引き受ける店が現れ、販売網も整備されつつあった。
折しも第一次世界大戦による空前の好景気が終わり、その反動で深刻な不況が日本を襲っていた。生糸の相場がわずかな期間に半値になり、全国の農家が大打撃を受けた。製糸業も操業短縮を余儀なくされ、全国の銀行で取付騒ぎが起こった。
そんな中で松下は着実に成長を続けていた。電話を引いたのもその一つだ。当時電話は千円(約四百万円)以上もしたため、個人商店で引けるものではなかった。ある意味、電話が信用のバロメーターでもあった。数年前、百円にも満たない資金で開業したことがウソのようだった。
大開町の工場は隣家を借りて拡張するなどしたが、それでも注文に応じきれなくなっていた。幸之助は新工場建設を決断した。幸い近くに百坪ほどの借地が見つかり、そこに工場、事務所、住居を建築する計画を立てた。建築費の見積は七千円余り。ところが手許には四千五百円しかなかった。
幸之助は棟梁に、残り二千五百円を分割にするように交渉した。しかも、完成した工場を抵当に入れるのは拒否した。「松下を信用してほしい」。
もちろん、毎月の売上から返済する見込みがあってのことだ。仕事が欲しい棟梁はこれを飲んだ。船場で叩き上げた交渉力だった。
新工場は大正十一年に完成した。広さだけでも以前の四倍。しかも最初から工場用に建設したので、民家を改造した旧工場よりも、五倍も六倍も能率よく使うことが出来た。
新工場は、幸之助の仕事への意欲をますますかき立てた。ここでパナソニックの歴史を画する新商品が世に出た。砲弾型自転車ランプである。
従来の自転車用ランプは主にローソクを用いており、風が吹くとすぐ消えた。幸之助自身、自転車に乗って配達していたから、風の強い日には本当に閉口したらしい。電池式のランプもあったが、二、三時間しか電池が保たず、交換の手間がかかるうえに割高だった。
(これからは電池式のランプや。明るくて途中で消えない自転車ランプを作れば、絶対に売れる)
こうして六カ月の間に何十個も試作品を作った末に、ついに画期的な砲弾型のランプが完成した。幸之助が一番苦心したのは電池だった。既成の電池を改良して組立て直し、少ない電力で点灯する豆球と組み合わせた。すると三十時間から五十時間も続けて点灯した。従来の製品の十倍である。
交換用の電池は三十銭ちょっと。ローソクが一本二銭で一時間だったから、それに比べて電池ランプがいかに経済的かが分かる。
幸之助は自信満々、勇躍して営業に出掛けた。ところがどの問屋の反応もはかばかしくない。電池ランプはダメだという先入観が強かったためだ。
良い製品を安く作れば必ず売れると信じていた幸之助には、大きなショックだった。