コラム

「繁栄による幸福を説く経営者 松下幸之助(後編) 第3話」

高度経済成長と家電市場の急激な拡大によって、昭和三十年代の松下電器の売上は十年間でほぼ十倍の二千二百億円余となった。

その一方で、急拡大によるひずみが、景気の後退局面で顕在化していた。発端は販売会社・代理店から焦げつきが出ているという報告で、回収不能の売掛債権は全国で十億円。 

売上全体から見ればわずかな額だが、幸之助はそれに満足せずさらに調査をさせた。すると売掛債権の総額は一千億になることが分かった。月商の約五カ月分である。

幸之助の鋭い嗅覚は、危機の予兆を感じ取った。

もともと松下電器では、戦前から代理店とは現金決済が原則だった。ところが戦後になって、売上拡大のために月賦販売(現在のローン)を導入した。その時に代理店との取引にも手形決済を認めたのだが、それが想像以上に膨れ上がっていたのだ。その上、代理店の多くが経営難に陥っているという。

(これはあかん。いまウミを出しとかへんと、エラいことになる)

 通常であれば、営業所の担当者に命じて代理店への対応をさせるところだが、幸之助はあえて全代理店を一堂に集め、自ら説明することを選んだ。これが有名な熱海会議である。昭和三十九年七月九日、会場は熱海のニューフジヤホテルだった。

 準備にあたって、幸之助は細かい点まで自ら検分し、指示を出した。例えば代理店が付ける来賓用のリボンよりも、松下電器の重役の方が大きいことに気付いて改めさせている。

初日は和やかに終わり、二日目朝から全体会議が始まった。議題は特に設けず、時間の制限もなかった。最初こそ代理店側も遠慮がちだったが、やがて質問が出始め、やがてそれは苦情の嵐となった。

 幸之助は壇上に立ち、それを一人で受けて立った。ここは経営者としての正念場で、部下に任せてはいけないことを理解していた。

 もっとも、一方的に打たれていたわけではない。時には鋭く反論した。例えば、「ウチは三十年ずっと松下とだけ取引してきたのにこの赤字だ。どうしてくれる」とある社長が言った時には、相手をはったと睨みつけ、こう切り返した。

「それじゃああなたは、これまで何回小便が赤くなったことがありますか?」

 血の小便を出すほど苦労してやっと一人前というのは、古くからの船場の経営哲学だった。つまり、松下の責任を言う前に、あなたはどれだけ努力したのかと問うたのだ。

 全体会議も二日目になり、幸之助はのべ十時間以上も壇上に立ち続けていた。そして昼近くになった時、幸之助の口調がガラリと変わった。

「代理店さんにもっとしっかりしてもらえればと思ったこともありましたが、これまで皆さんの意見をお伺いしてきて、すべての原因は私共にあることが分かりました。今日、松下があるのは本当に皆さんのおかげです。これからどうしたら皆さんに安定した経営をしてもらえるのかを考えます。お約束します」

 そう話す幸之助の目は真っ赤になり、大粒の涙がぽたぽたとこぼれ落ちた。会場の空気も異様だった。辺りはシンと静まりかえり、時折、あちこちからすすり泣きの声が聞えた。

 幸之助の誠意が全員の心を一つにしたのだった。

 熱海会議が終わると、幸之助は直ちに営業本部長代行に就任した。すでに社長を退任して会長となっていたが、自分が陣頭指揮を執るという強いメッセージを発したのだ。

問題の根幹は、大別して二つあった。一つは松下電器から販売会社・代理店への押し売りだ。目標数字を達成するため、無理やり在庫を抱えさせていたのだ。

この点については、一地区一販売会社制を取るとともに、松下の支社を通さずに事業部から直接販売会社へ製品を納入することにした。いわば販売網の再編成と、必要な製品を必要な数だけ卸す体制を作ったのである。

もう一つ、月賦販売の集金と管理が小売店の大きな負担になっていた。これを売上が立った時点で信販会社に債権譲渡をさせて、信販会社の責任にした。これは現在のクレジットカードの仕組みとほぼ同じである。

こうして短期間に事態を収束したことで、熱海会議は幸之助の伝説となった。

しかし、この後、順風満帆に見えた松下電器の前に、これまでにない強敵が立ち塞がった。しかもそれは、意外な所からやって来た。流通革命を掲げる中内功である。

昭和三十二年、大阪市旭区の千林商店街に「主婦の店ダイエー」を開店した中内は、翌年神戸の三宮にチェーン化一号店を開店した。

中内のやり方は、問屋から現金で大量に仕入れるかわりに安く買い叩き、定価よりも値引きして販売するというものだった。これは消費者に熱狂的に支持され、急成長した。

当初のダイエーは現在のドラッグストアーのような品揃えで、薬の安売りがメインだった。そこから各種生鮮食料品にまで取扱い商品を拡げていった。牛肉などは一頭買いして、自社でさばいてそのまま店頭で販売した。並べるそばから、飛ぶように売れたという。

メーカーは何とか安売りを止めさせようと、あの手この手で問屋に圧力をかけたが、ダイエーはそれに屈せず、様々に知恵を絞って安売りを続けた。

これまではメーカーと問屋が定価を決め、小売店はその価格で販売するしかなかった。それに対して中内は、小売り側が主導で価格を決めようとしたのだ。

 中内のビジネスモデルは、幸之助の思想と正面からぶつかった。幸之助の「水道哲学」は、社会に必要な商品を安く大量に供給して、社会を豊かにするというものだった。

 だが一方で幸之助は、「適正利潤」という考えを持ち、安易な安売りには強く反対していた。利益を度外視した安売り合戦で経営が危うくなる例を、数多く見てきたからだった。

 そしてついに中内の価格破壊の標的が家電製品に及んだ。東京五輪の需要を見越した生産が過剰となり、ダブついたテレビの在庫を買い叩き、値引き販売に踏み切ったのだ。 

自社の製品がダイエーの店頭に並んでいるのを知り、松下電器も直ちに対抗策を取った、ダイエーに製品を卸している問屋を特定し、出荷を停止したのである。

 価格は誰が決めるべきか。この譲れない一点を巡って、激しい闘いが始まった。