コラム

「繁栄による幸福を説く経営者 松下幸之助(後編) 第5話」

現在PHP研究所からは、幸之助の著作が数多く出版されている。今の若い人たちにとって、松下幸之助は起業家や経営者というよりも、経営哲学や自己啓発の著作家という印象が強いかもしれない。

PHPとは「 Peace and Happiness through Prosperity」の略であり、「繁栄によって平和と幸福を」という意味だ。ここには物質的な豊かさと精神的な豊かさは車の両輪であるという幸之助の哲学が凝縮されている。

それまでの幸之助は、安価で質の良い電化製品を社会に豊かに供給することが、企業家としての使命だと考えてきた(水道哲学)。しかしそれはあくまで物質的な豊かさだった。 

そこからさらに一歩を進めて、人間とはどのような存在で、どう生きることで幸福になれるのか。すなわち精神的な価値と豊かさを追求しようとしたのがPHP運動だった。

幸之助がPHP研究所を創設したのは、戦後間もない昭和二十一年十一月三日のことだった。翌年四月には月刊『PHP』を発刊。財閥指定と公職追放の中であえてこの運動を始めたことに、彼の志の高さがあるといっていいだろう。

だが、戦後の混乱の中で松下電器の経営も大きく傾いていた。昭和二十五年には『PHP』の発行以外の活動を中断し、経営再建に注力しなければならなかった。

昭和三十六年に社長から会長になったのを機に、幸之助は活動を再開した。京都東山の山麓に「真々庵(しんしんあん)」を設けたのもその一環だ。

敷地五千平方メートルに数寄屋造りの母屋と庭園。その一角に「根源の社(やしろ)」という小さな社を建てた。大宇宙の根源の力を祀ったもので、幸之助は真々庵を訪れた際には必ずその前で手を合わせて祈った。

幸之助の著作の大半は、自分の体験を通じた成功哲学や人生論だ。実際、人々が聞きたがるのは、「どうしたら自分も同じように成功できるのか」という話だった。

しかし幸之助の思想は、そういう世俗的な部分を突き抜けていた。彼の根底にあったのは「人間とは何か」というより根源的な疑問だった。PHP研究所元社長で晩年の幸之助の側近だった江口克彦によれば、幸之助はこのテーマについて二十数年も考え続けていたという。

それが結実したのが昭和四十七年発刊の『人間を考える』だ。出版までの間、江口は幸之助と二人で連日の勉強会を半年も続けた。その間幸之助は常に正座を崩さず、真夏の暑さも食事を摂るのさえ忘れるくらい集中していた。まさに人生を賭けた探求だった。

 幸之助によれば、人間は成長発展し、幸福になるべく天から定められた存在だ。だがそれには大宇宙(自然)の理法に従って生きねばならないという。

また幸之助は「素直な心」の大切さを強調したが、これは単に人の言うことに従え、という意味ではない。雨が降れば傘をさし、種を蒔いて収穫を刈り取る。このような自然の理法に従って生きることが、「素直な心」なのだった。

二十世紀になって急速に発展した資本主義と科学技術のおかげで、人類は未曽有の繁栄を享受したが、同時に環境破壊や核戦争の脅威が迫っている。それはまさに、人間が自然の理法を無視した生き方をしているからだろう。

相談役に退いてからは、幸之助は週刊誌などに出て、政治や社会について積極的に発言した。昭和四十九年の『崩れゆく日本をどう救うか』は、発売半年で五十万部突破というベストセラーとなった。

この頃から幸之助は政治に深い関心を示すようになる。オイルショックによる不況と田中角栄による金脈政治への批判で、政治不信が高まっていた時期だ。日本の行く末を心から憂慮した幸之助は、政治の刷新を真剣に考え始めた。

松下政経塾構想が発表されたのは、昭和五十三年九月のことだった。

全国から三十人の青年を募り、神奈川県茅ケ崎市で二十一世紀のリーダーを養成する。松下幸之助が自ら塾頭となり、私財七十億円を拠出する、という内容だった。ジャンボ宝くじの一等一千万円が話題になった時代である。

塾の教育方針は「自修自得」だった。これは幸之助の「政治学や経営学は教えられても、政治家や経営者は養成出来ない。自ら学ぶしかない」という考えによるものだった。

江口克彦によれば、この構想は自体は昭和四十年代頃からあり、当時は時期尚早で実現しなかったという。逆に言えば、今がそのタイミングだと幸之助は見たのだろう。

松下政経塾は、現在第四二期から四五期生が在塾中だ。第一期生の野田佳彦、逢沢一郎をはじめ、これまで衆議院議員二十七名、参議院議員九名を輩出している。令和六年九月の自民党総裁選で石破茂と争った高市早苗は、第五期生だ。

とはいえ、教育の成果が形になるのには時間がかかる。松下政経塾が日本の政治に果たす役割が見えてくるには、もう少し時間がかかるかもしれない。

幸之助はこれ以外にも新党構想を練っていたらしい。ただ懇意にしている財界人たちは賛同せず、幸之助の体調悪化もあって断念せざるを得なかった。

ただ細川護熙が日本新党ブームを巻き起こして、自民党からの政権交代を実現したのが平成五年。幸之助の死から四年後のことだ。自民党政治が限界に近づいているという、幸之助の判断自体は間違っていなかったのだ。

最晩年の幸之助は、大阪府守口市の松下記念病院の特別室で起居していた。それでも来客があると、几帳面に背広に着替えていたという。

昭和六十四年一月七日。昭和天皇が崩御され、一つの時代が終わった。幸之助が亡くなったのは、同じ年の四月二十七日。九十四歳だった。

臨終前の四月二十日、院長が気管につまった痰をチューブで吸い上げる時に、「これから管を喉に入れます。ご辛抱ください」と声をかけると、幸之助は「いやや、お願いするのは私ですから」と答えたという。

これが最後の言葉になった。死の直前まで、周りへの気配りを忘れない人柄だった。(終)