コラム

「繁栄による幸福を説く経営者 松下幸之助(前編) 第2話」

五代自転車店を辞める決心をした幸之助だったが、大恩のある主人に面と向かって打ち明ける勇気はなかった。そこで家族に頼んで、母が病気という電報を打ってもらった。そして後からお詫びの手紙を書いた。

とはいえ、志望の大阪電燈会社にも欠員がなく、スンナリとは入社出来なかった。その間およそ三ヶ月。幸之助は義兄の紹介で、セメント会社の運搬工として働いた。これは生まれつき体の弱い幸之助にとって、こたえる仕事だった。それでも続けるうちに段々と体力も付き、非力ながらも何とか仕事をこなせるようになった。

ようやく欠員が出て、待望の大阪電燈会社に入社がかなった。幸之助十五歳の時だ。最初の仕事は屋内配線工事の助手だった。材料を積んだ手車を引いて、担当者の後ろを付いていく。この手車もなかなか重いものだったが、セメントの運搬工として働いていたおかげで、それほどしんどいとは思わなかった。

体力的に余裕があったためか、幸之助は担当者の仕事をじっと観察した。一、二カ月もすると、配線の仕組みが大よそ分かってきた。やがて、ちょっとした工事をやらせて貰えるようになった。自転車の修理で工具は扱い慣れていたし、手際も良かった。担当者から「君はなかなか巧い」と褒められた。

入社して三ヶ月で、幸之助は見習いから担当者に昇格した。業務拡張に伴う営業所新設のためだったが、それにしても異例の早さだった。実際、腕も確かだった。幸之助は自分よりも年上の見習い工を従えて、毎日肩で風を切って工事に出掛けた。

結婚は二十歳の時だった。父は五代商会に奉公中の十一歳の時に亡くなり、母も電燈会社に転職して四年目に亡くなっていた。そこで姉が心配して、早く身を固めるように勧めたのだ。相手は淡路島の出身で、大阪の旧家で女中奉公をしていた井植むめの。彼女の弟が、後に三洋電機を創業する井植歳男である。これもまた運命の出逢いであった。

電燈会社での仕事は順調だった。幸之助はますます仕事に没頭し、二十一歳で検査員に昇格した。異例の出世だった。これは担当者が実施した工事の良否を、翌日に検査する仕事だった。現場の工事に比べれば仕事自体も楽で、担当者の誰もが羨む地位だった。

検査員は一日に十五軒から二十軒を回るが、幸之助は道順に工夫をしたため、朝の九時頃に会社を出て早い時には昼頃に仕事が終わってしまう。まさに順風満帆だった。

ところが、人生というものは分からない。幸之助は、だんだん仕事が物足りなくなってきた。しかも、時間はたっぷりある。

当時は電球の取り外しも、素人では簡単に出来なかった。幸之助は以前からソケットを改良して、専門知識がなくても簡単に取り外しが出来るようにしたいと考えていた。そこでこの機会に、本格的に工夫して試作品を作ってみた。

ところが、それを上司に見せると散々な評価だった。幸之助の心に火が点いた。

「これは絶対にモノになる……。よし、思い切って会社を辞めよう。改良したソケットを製造するんだ。絶対にうまくいく」

 若いだけに、勢いが付くと止まらなかった。親しかった同僚二人と、妻と義弟の井植歳男の五人で事業を始めた。

手元にある資金は、退職金と貯金を合わせてわずか百円足らず(現在の約四十万円)。工場は幸之助の住んでいた二畳と四畳半の住居のうち、四畳半の半分を土間にして間に合わせた。家族は残りの二畳で寝るしかなかった。

しかも、ソケットを製造しようにも、肝心の製造方法が分からない。特にソケットの材料である、アスファルトや石綿等を調合した「煉物(ねりもの)」と呼ばれる物の調合方法は、どこの会社も企業秘密にしていた。

さすがの幸之助も、後年に振り返って「滅茶苦茶だった」と語っている。

 それでもあれこれ苦心して、事業開始から四カ月で、ようやく試作品が出来た。早速、見本を持って大阪中の問屋を回ったが、幾らで売っていいのかさえ分からず、相手に値段を決めてもらう有様だった。ようやく売れたのが百個ほどで、売上は十円足らず。

実際、このソケットはまだ改良の余地があることが分かった。ここで元同僚二人が脱落した。それぞれ生活があるのだから当然だった。

松下家の家計も窮迫した。妻むめのは、着物、帯、指輪まで質に入れた。風呂銭すらない日があったという。しかし幸之助は、不思議と止めようとは思わなかった。実際、ここで止めてサラリーマンに戻っていたら、後年のパナソニックはなかった。幸之助は生活の事も考えず、ひたすらソケットの改良に熱中した。

助けの神は意外な所から現れた。川北電気から、扇風機に使う碍板(がいばん:スイッチに付ける絶縁体)一千枚の注文が入ったのだ。従来扇風機の碍板には陶器を使っていたが、「煉物」を試してみようという事になったのだ。

「急ぎの仕事だ。すぐに見本を作ってくれ。品質が良ければ、年間二万台から三万台製造している扇風機に、すべておたくの製品を使うから」

 材料はソケットと同じなので、後は見本通りの型さえ作ればいい。幸之助はソケットの改良をいったん中止して、鍛冶屋に一週間付きっ切りで型の製作にあたった。

試作品を持って行くと、先方は満足して、直ぐに作れと言ってきた。多忙な毎日が始まった。鍋で煉物の材料を煮て、幸之助が型押しをした。当時十五歳の井植は磨きや雑用だ。

一日に百枚を製作し、年の瀬が押し迫った頃に千枚を完納した。代金は百六十円。原価は一枚八銭だったから、ざっと八十円の粗利益が出たことになる。

これを幸之助の類まれな幸運というべきか、それとも彼の誠実な努力を見てくれていた人がいたというべきなのか。いずれにせよ、これで幸之助は息を吹き返した。

川北電気は約束通り、それ以降も定期的に注文をくれた。これまでの住居兼工場はたちまち手狭になったので、阪神電車野田駅近くの大開町(現大阪市福島区大開)の借家に移転した。大正七年三月のことだった。これが実質的なパナソニック創業の地であり、ここから幸之助の怒涛の進撃が始まることになる。