松下幸之助は様々な顔を持っている。世界的な家電メーカーのパナソニックを一代で築き上げた実業家であると同時に、「繁栄による平和と幸福」を説くPHP運動を提唱した思想家でもある。PHP研究所からは幸之助の著作が数多く出版され、今もベストセラーになっているから、著述家でもある。晩年に松下政経塾を設立して次世代のリーダーの育成を目指した点は、教育者といえるだろう。
このうちのどれが幸之助の本当の姿なのだろうか。その問いへの答えを考えるにあたって、「根源の社(やしろ)」について触れたい。これは宇宙の根源を祀る社で、外見は伊勢神宮を模して造られている。当初、京都東山の幸之助の別邸真々庵の庭園内に創建され、幸之助は日々真剣に祈りを捧げていた。後に京都にあるPHP研究所本社にも分祀された。
筆者は去年五月に京都のPHP研究所を訪れ、同所の元専務取締役で晩年の松下幸之助に研究員として仕えた経歴を持つ、佐藤悌二郎氏からお話をいただく機会を得た。
その折に「根源の社」にもお参りさせていただいた。それは不思議な光景だった。社内に神棚がある会社は多いが、それとも何か違う。
(ここで幸之助翁はいったい何を祈っていたのだろう)
これは松下幸之助の本質に関わる問いだが、いったん筆をおいて、まず幸之助の生涯についてみてみよう。
松下幸之助は明治二十七(一八九四)年に、和歌山県海草郡和佐村(現和歌山市禰宜)で生まれた。日本が日清戦争に勝利し、強国への階段を登り始めた頃だ。
幸之助の生家は小地主で、幼い頃は何不自由ない暮らしをしていた。ところが父が相場に手を出し、先祖伝来の財産をすべて失ってしまう。生活が困窮する中で、長兄、次兄、長姉が相次いで世を去った。父は大阪で就職し、幸之助も尋常小学校を四年で中退して大阪の火鉢屋に丁稚奉公することになった。南海電鉄紀ノ川駅まで母が見送りに来た。この時の母の寂しそうな顔を、幸之助少年は生涯忘れなかった。
奉公先では朝から晩まで休む暇もなかった。もっとも困窮した家庭で育ったので、仕事は辛いとは思わなかった。ただ母が恋しくて、幸之助は布団の中でよく泣いたという。給料は月に二回、五銭ずつだった。
事情があって火鉢屋が店を閉めたため、奉公生活三ヶ月で幸之助は五代自転車店に移った。仕事は朝晩の掃除と陳列商品の手入れ、それに自転車の修繕の見習いだった。これがなかなか過酷だった。自転車の部品の加工に使う旋盤は手回し式で、丁稚がこれを回さねばならない。腕が疲れてくると、容赦なく金槌で頭をポカリとやられた。
当時の自転車はかなりハイカラな乗り物で、現在の新車に匹敵する値段だった。五代自転車店の顧客の一人がサントリー創業者の鳥井信治郎(第十二話)だ。自転車に乗って颯爽と得意先回りをする鳥井の姿は船場でも評判だった。幸之助は修理の出来た自転車を鳥井の許に届けた折に、「坊、気張るんやで」と声を掛けられ、頭を撫でられたという。この感激を幸之助は後々まで忘れなかった。
五代自転車店には、十歳からおよそ六年間奉公をした。この間、幸之助の後年の才気をうかがわせるエピソードが幾つかある。
その一つがタバコのまとめ買いだ。店に来る客からタバコのお使いを頼まれる度に、仕事の手を止めて買いに走っていたが、それが度重なるので一計を案じた。タバコ屋では二十個買うと一個オマケをしてくれるので、小遣いをはたいてまとめ買いをしたのだ。おかげでお使いの手間が省け、自分も儲かる。これは客の間で評判になった。
また当時は自転車の輸入元が宣伝のために盛んにレースを開催し、それがかなりの人気を博していた。五代自転車店にも選手が何人も出入りしており、幸之助も朝四時半に起きて練習に参加するようになった。
練習場には毎朝三、四十名が集まり、茶店まで出来ていたという。幸之助はアチコチのレースに参加して何度も一等を取ったというから、なかなかの腕前だった。だが、あるレースで転倒して鎖骨を折り、主人に止められてからレースはやめてしまった。
十三歳の頃には主人や番頭のお供で、得意先も回るようになっていた。たまたま主人も番頭も留守の時に電話があり、幸之助が一人で見本の自転車を持っていった。
相手方はさすがに商売人で、幸之助の説明を聞いた後、「一割引なら買う」と言った。その位の値引きは普段からしていることを知っていたので、幸之助は喜び勇んで店に戻って主人に許可を求めた。
ところが主人は、「そんなに値引きはできない。五分なら負けますと言ってこい」。これを聞いた幸之助は、何とか一割引きにしてくれと頼み込んできかない。しまいに主人は、「お前はどっちの店員なんだ」と怒り出した。そこへ、幸之助の帰りが遅いことを不審に思った相手から電話があった。事情を聞いた相手は感心して、五分引きを承知したばかりか、「その小僧さんがいる限り、自転車は必ずおたくの店で買う」とまで言ってくれた。
これらの逸話から、十代の幸之助少年の類まれな資質が透けて見える。タバコからは顧客のニーズを捉えるセンス。自転車レースからは進取の気性と勇気。値引きの話からは、顧客第一主義。どんな分野でどんな商売をしても成功しただろう。
とはいえ、このまま奉公を続けていたら、将来は自転車屋として独立し、そのまま一生を終えたかもしれない。しかし幸之助は、自転車が年々普及して価格も下落する一方で、大阪市内に電気鉄道が敷設され、電気の需要は今後益々高まると考えた。
そこで義兄とも相談し、大阪電燈会社への転職を決心した。幸之助は人生を左右する大胆な決断を生涯に何度かしているが、これがその最初だった。
とはいえ、五代自転車店には長年世話になった恩があり、愛着もあった。どのように言い出すべきか。幸之助は悩みに悩んだ。