コラム

「新春対局にかける  第5話」

葉子には予想外の手だったのだろう。右手を碁笥から離し、盤面に視線を落とした。島村も盤面を見る。彼女の視線が盤面を彷徨ったあと、チラリと島村に向けられたのを、彼は視界の片隅で感じ取った。白石に切られると、大きく持ち込みになると分かったようである。彼女は、碁笥から黒石をつまみ、その切りに備える地点に手を伸ばしかけたが、動きを止める。このときだけは、彼女のしなやかな指の動きがぎこちなくなった。そして、彼女は中央の白模様になおも踏み込んできたのだ。

島村は、葉子が投げ場を求めたのだと思った。その黒石も含め中央の黒石が数子持ち込みとなってしまう。彼女は自分を恥じ、落胆し、心の中で泣いているのかもしれない。勝気でプライドの高い性格が窺える。

島村も、葉子の着手が意外だった。だが、この時点でも彼は切りを断行せず、中央の黒石数子を小さく取り込む作戦に出た。

再び島村の視界の片隅で、葉子の視線が彼に向けられたのが分かる。彼女は、小さく頭を下げたような気配を見せ、ようやくにして、白からの切りに備え、顔を上げると真っ直ぐな視線で彼の顔を見た。

島村も顔を上げて葉子の視線を受け止めた。彼の表情は微かに笑みを浮かべたようにも見える。

その後は、互いに慎重な打ち回しが続いた。ハネツギなど小寄せを丁寧に打ちながらも、島村が何度も熟考を重ねる。そんな分かりやすいところでの小考の連続は、正岡を始めとする観戦者には不思議に思えたのだろうが、葉子は盤面に視線を落としたまま、しっかりと応接している。そのまま終局まで、彼女は視線を上げることはなかった。

「終局です」

北川九段の合図で、島村と葉子はすべての駄目を詰め終えた。

「ふうむ」と、北川九段が島村と葉子の顔を見比べた。

「黒地が五十五目、白地が五十五目、ジゴです」と北川九段。

「ほお」と観戦者全員が嘆声を洩らした。

「ジゴとは、これはこれは、正月早々おめでたい」

自然と拍手が沸き起こる。

葉子は、立ち上がって「有難うございました」と、島村に頭を深く下げた。島村も「こちらこそ」と応じる。

「先生の今日のご指導は、一生忘れません」

そう言った葉子は、晴れ晴れとした笑顔になっている。

川端理事長が「ジゴ、引き分けかいな」と、嬉しそうでもあるが、複雑な表情も垣間見せた。

そのあと参会者全員での立食パーティとなり、しばらくしてから川端一家と北川九段が会場を去ると、正岡が島村の耳元で囁く。

「さすがに、大したものだなあ。見ごたえのあった一局だったが、ジゴで終わらせるとは。終盤の君の熟考は目数を数えていたんだな」

「僕にも、いい勉強になりました。しかし、社長、負けませんでしたよ」

「うむ。たしかに」

古来、囲碁の対局でジゴは非常にめでたいものとされている。正岡は率直に喜んでいるが、島村にとっては細心の注意を払った終盤だったに違いない。葉子は、対局中に、果たしてジゴになったと気づいていただろうか。

「理事長も、困っているだろうなあ」

「そうでしょうか」

「君のお陰で理事長も、葉子さんも、もう一度真剣に考えると思う。いや、本当に有難う。あらためて君に惚れ直した」

そう言って、正岡はワイングラスを島村に差し出した。

島村はそれを受け取り、この日初めてグラスを口元に運び、見事にワインを飲み干した。

 

                          (了)