コラム

「日本に実業界を創った男 渋沢栄一 最終話」

パリ滞在中に幕府が瓦解した。帰国した栄一は駿河に旧主徳川慶喜を訪ね、商法会所設立に尽力する。一方大隈重信は、栄一を見込んで大蔵省に出仕するよう説いた。

 栄一は大蔵省入省後、大隈や井上馨らの知遇を得て、廃藩置県をはじめ諸制度の改革に奮闘し、財政の健全化のため、歳入に応じて各省の予算を定めようとした

 ところがそこへ大蔵卿(大臣)の大久保利通から、「陸軍予算八百万円、海軍予算二百五十万円」という額を一方的に通達してきた。

栄一は断固として反対したが、大久保にもやむを得ない政治的事情があった。結局栄一は屈せざるを得ず、このことから宮仕えの限界を感じ始めた。

 やがて歳入の数字が出揃い、政府の年間予算は約四千万円と定まったが、各省庁は容易に自省の予算に納得せず、枠内に抑えようとする井上や栄一らと激しく対立した。

 そこへ尾去沢銅山汚職事件などがあり、井上は辞職を余儀なくされた。栄一もこれが潮時だと思い、連袂(れんべい)して辞表を提出した。官への未練はなかった。

もっとも、時代が栄一を放っておかなかった。政府は殖産興業政策をとっていたが、それを現場で実行できる人材はほとんどいなかった。

その点、栄一はどこから見ても適任だった。幕末に欧州を見聞し、駿河では商法会所を経営するなど現場経験も豊富で、元大蔵官僚で新しい制度や法律を熟知している。

栄一自身もこの機会に、民間の立場から日本の産業を振興するという夢を抱いていた。

西洋諸国の力の源泉は巨大な経済力にあった。工場の規模、鉄道や船舶の輸送力など、すべてが日本とケタ違いだった。では、その差はどこから生じたのか。

(カンパニーだ。これが多くの人から資本を集め、巨大な事業を行う仕組みなのだ)

 これは栄一の独創ではない。維新前にすでに坂本龍馬が気付き、雄藩から出資を募って日本初の商社亀山社中を発足させていたし、薩摩の五代友厚も同じ構想の持ち主だった。

 だが栄一が彼らと違っていたのは、金融という視点を持っていたことだった。特に一橋藩で藩札の発行に携わり、紙幣(通貨)発行権の持つ魔術的な力を知っていた。

だから欧米には中央銀行があって一国の通貨を発行すると同時に、その巨額の資金を血液のように国中のカンパニーに供給している、という仕組みがすんなりと理解できた。

(これまでのような両替商ではなく、日本にも銀行、とくに中央銀行が必要だ)

 そう考えた栄一は、大蔵省在職中から国立銀行条例に携わり、その設立計画を練っていた。こうして明治六年に第一国立銀行が発足し、栄一が総監役(頭取)の座に就いた。

国立銀行と言いながら、資本金は両替商の三井組、小野組を中心に民間から集めていた。明治二十九年に国立銀行条例の期間満了により、株式会社第一銀行となった。

いわば過渡期の中央銀行だったが、明治十五年に日本銀行が発足するまでこの銀行が発券銀行の機能を有していた。

戦後に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となり、現在のみずほ銀行に至っている。

 

栄一は七十六歳まで第一銀行頭取を務め、ここを拠点として明治以降の日本の基幹産業の育成に携わった。教育や社会活動にも熱心だった。

そのスケールの大きさは現代の財界人の比ではない。以下、概略のみ記したい。

東京株式取引所(現東京証券取引所)と東京商法会議所(東京商工会)を設立した。ちなみに大阪株式取引所、大阪商法会議所の設立は、前述の五代友厚である。

鉄道にも強い関心を持ち、日本最初の私鉄、日本鉄道会社の経営に関わった。その後鉄道は国有化が主流となるが、京阪電鉄、秩父鉄道など地方の私鉄の設立に携わっている。

三菱系の郵便汽船の海運独占に対抗して、浅野総一郎と共に共同運輸を立ち上げた。両社は政府の仲介で合併し日本郵船となるが、栄一はその取締役に名を連ねた。

ほか、東京瓦斯、東京電灯、東洋紡績、王子製紙、東京石川島造船所、帝国ホテル、東京海上保険、清水建設、麒麟麦酒、サッポロビール、東急等、数多くの事業に携わった。

教育では、商法講習所(現一橋大学)、大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に関わった。二松学舎(現二松学舎大学)では第三代の舎長(理事長)を務めた。

女子教育にも理解があった。伊藤博文を委員長とする女子教育奨励会に創立委員として参加したことがきっかけで、日本女子大学校などの設立に協力した。

社会活動についても述べておこう。

栄一は、生活困窮者保護を行う東京養育院の院長を、明治九年から亡くなるまで務めている。論語の教えから、貧者の保護は富者の義務だと考えていたのだ。

聖路加国際病院の初代理事長、日本で最初の知的障がい児のための施設滝乃川学園では第三代の理事長を務めた。東京慈恵会、日本赤十字社、らい予防協会にも関わった。

また寄付を求められることが多かったが、無条件に何でも出したわけではない。

本田静六博士が、埼玉の学生育英会への協力を求めたことがあった。ちなみに本田博士は苦学して東京帝大教授になった人で、後世、投資の神様として知られている。

栄一は話を聞いた後、「中心になる人がまずカネを出すべきだ」と言い、本田博士がすかさず三百円を差し出すのを見て、支援を決めた。

カネを惜しんだのではなく、安易に全額出しては依存心が生まれて事業への取組が甘くなり、失敗すると考えたからだ。これが栄一の流儀だった。

 渋沢栄一が偉大だったのは、「渋沢財閥」を作らなかったことだ。事業は公共物だと考え、私物化しようとしなかった。だから誰もが安心し、競って事業を任せようとした。

渋沢栄一は昭和六年十一月、九十一歳で永眠した。すでのこの年の九月に満州事変が始まっていた。

この明治後の日本の興隆と共に生きた人物の死後、ほどなくして無謀な戦争で日本が滅んだのは、日本の歴史を語るうえで象徴的な出来事だといっていい。