コラム

「洋酒文化の伝道師 鳥井信治郎   第1話」

ジャパニーズウイスキーは、現在、世界的なブランドとしての評価を確立している。その礎を築いたのは、サントリーの鳥井信治郎とニッカの竹鶴正孝である。竹鶴はサントリー山崎蒸留所の初代所長を務め後に独立してニッカを創業したから、その意味で鳥井の功績はより大きいだろう。

 この二人は共に天才的なブレンダーだったが、本場スコットランドに留学してウイスキー作りの基礎を学んだ竹鶴が職人肌なのに対し、大阪船場の商家に生まれて丁稚奉公から叩き上げた鳥井は、根っからの船場商人だった。

 もっとも鳥井がただのソロバン勘定だけの男だったら、日本初の本格的ウイスキーに挑戦することはなかっただろう。熟成に時間がかかるウイスキー作りは、それだけリスクが大きかったのだ。

鳥井は洋酒に魅せられた夢追い人であり、モノ作りの情熱に燃えた求道者であり、日本に洋酒という新しい文化を広めた伝道師でもあった。

 このようなスケールの大きい人物が大阪から登場したことに敬意を表して、第十二話に取り上げることにしたい。

鳥井信治郎は明治十二(一八七九)年に大阪市東区釣鐘町で、父忠兵衛の次男に生まれた。家は両替商だが、鴻池や三井のような大規模なそれではない。台車に積んだ両替用の小銭を市中の商店に配達して、わずかな手数料を得る仕事である。

忠兵衛は、信治郎が小学生の時、米穀商に転業している。全国各地に銀行が設立されていた時期であり、考えるところがあったのだろう。

ちなみに第八話に登場した、野村證券創業者の野村徳七の生家も銭両替だった。徳七はそこから脱け出すためにまだ珍しかった株式仲買人を始め、徹底した調査によって成功した。信治郎とは生家も近く年齢も一歳違いなので、互いに見知った仲だったろう。

 さて母のこまは商家のおかみさんらしく、健康的で明るい性格だった。その上非常に信心深く、子どもを連れて寺社仏閣の参詣によく出かけていた。

 釣鐘町から北に歩き天神橋を渡ると大阪天満宮だ。こまは、お参りの際に必ず、橋の上の乞食に施しをした。乞食は大げさな身振りと口調で礼を言うのだが、「見てはいけません」と、こまはきっぱりと言って、息子の手を強く引いた。

こまが教えようとしたのは、「陰徳」だった。施しや寄附は無償の行為である、という考えだ。これは信治郎の人格の根本の部分を作った。彼は生涯神仏への信仰が篤く、社会事業にも熱心だった。それはサントリーの企業文化にもなっていく。

 信治郎は小学校の尋常科で一年、翌年は四学年飛び級して高等科で一年学び、さらに大阪商業学校に二年通った。ちょうど学制の草創期で、大らかなものだった。

船場商人は、机上の勉強よりも体で覚える修業を重視した。信治郎も十三歳で、道修町の薬種問屋小西儀助商店に丁稚奉公した。次男であるため、他の店の奉公人になるか、独立するしかない。

 奉公先の小西儀助商店では、ぶどう酒などの洋酒を扱っていた。当時のぶどう酒は、輸入した原酒に香料や甘味料を加えて調合した混合酒で、滋養強壮のために毎日少量飲む薬酒の位置づけだった。それでも、そこには海の向こうの華やかな文化の薫りがあった。

 信治郎は幼い時から、特別に嗅覚が鋭かった。そこを見込まれて主人のぶどう酒調合の助手も務めたが、それが古参の店員の嫉妬をかったらしい。それが原因かどうか、三年後に染料を扱う小西勘之助商店に移っている。

独立して鳥井商店の看板を掲げたのは二十歳の時だった。扱う商品はぶどう酒や缶詰などで、ぶどう酒は信治郎が自ら調合した。西洋人から見ればまがい物の混合ぶどう酒だが、先発の商品がすでに市場を握っていた。

中でも圧倒的に人気だったのが、神谷伝兵衛の蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)だった。伝兵衛は今でこそ名前が埋もれているが、浅草の神谷バーで電気ブランを売り、牛久にワイナリーを造った、洋酒文化草創期の偉人である。

そこで後発の信治郎は、西区川口(かわぐち)の居留地にある中国人商館に売り込みをかけた。一種のニッチ戦略だが、これが当たった。商売は順調に伸び、人を雇い広い店舗に引越した。名前も鳥井商店から寿屋に改めた。

だが信治郎は、この程度の成功では満足できなかった。どうせやるなら、日本一にならねばならぬ。信治郎は闘志を燃やし、国産ぶどう酒の市場に参入する決意をした。

それは困難な道のりだった。蜂印に匹敵するぶどう酒の開発も容易でなかったが、信治郎には常識では考えられないようなカネの使い方をする癖があった。仕事に必要だと思うと、辛抱ができなくなるのである。

例えば神戸のセレース商会から、スペイン産ワインを大量に仕入れて売り出したが、見事に失敗した。ワイン独特の渋味が、日本人の口に合わなかったのだ。

(本物やから売れるとは限らへん……。やっぱり、日本人向けには、甘くて飲みやすくないとあかんのや)

また舶来の自転車ピアス号は、堺筋淡路町の五代商店から購入したが、月給取りの生活費が一か月二十円の時代に二百五十円もした。船場の街をさっそうと自転車で走る信治郎の姿は大そう評判になったが、資金繰りにいいわけがなかった。

ちなみにこの五代商店で丁稚をしていたのが松下幸之助だった。幸之助は信治郎に憧れ、信治郎に優しく声をかけられて励まされたことを生涯忘れなかった。

信治郎が派手に失敗して窮した時に、いつも尻拭いをしてくれたのは、実家を継いだ兄の喜蔵だった。