コラム

「洋酒文化の伝道師 鳥井信治郎   第5話」

ビール事業の売却によって、寿屋は息を吹き返した。中国大陸で戦争が続き、統制経済の時代に入っていたが、寿屋は海軍の保護を受けて事業を続けた。

 軍隊には大量のアルコールが付き物であり、しかも海軍は万事英国式だったから、ウイスキーについても理解があったのだ。

 そんな矢先、副社長に据えて、事実上の後継者としていた長男の吉太郎が急逝した。診断は心臓性喘息による心筋梗塞。まだ三十三歳の若さだった。

 信治郎は激しく落胆し、また怒り狂った。すでに妻のクニを亡くしていたが、それに続く身内の死である。しかも次男の敬三はまだ学生だった。

さらに長男を亡くした二か月後に、兄の喜蔵まで亡くなった。喜蔵は長男らしく温厚な性格で、独立まもない頃、信治郎は資金繰りなどで、ずい分迷惑をかけていた。

心に空いた穴を埋めるように、信治郎は事業に没頭した。すでに商売の自由はなくなっていたが、軍からはアルコール工場の建設などで協力の要請があり、各地を飛び回った。

その間、軍からアルコールP入りウイスキーの製造を命じられたことがあった。ところが信治郎は試作品を試飲するなり「こんなもんはウイスキーやない」と言って、その命令を断ってしまったという。信治郎の本物へのこだわりと、硬骨ぶりを示す逸話である。

戦局は日に日に悪化し、国民生活は窮乏していった。信治郎は自らを鼓舞するように「この戦争は絶対に勝つ」と言い続けたが、まもなく本土に敵機が襲来した。

それでも信治郎は、「うちの工場に絶対に爆弾は落ちへん」と頑張ったが、ついに大阪にも空襲があり、寿屋の本社と大阪工場は全焼した。だが山崎蒸留所は無事だった。

そして敗戦。ここからが、信治郎の真骨頂だった。まるで手のひらを返したようにGHQ(連合軍総司令部)に接近して、ウイスキーを納めたのである。

信治郎の次男の佐治敬三(二代目社長)は、海軍から復員したばかりで、自宅でGHQの将校たちの接待をする父親を苦々しい思いで見ていた。

しかし信治郎にとってウイスキーこそ命であり、ウイスキーを守るためなら誰とでも組み、誰にでも頭を下げるつもりだった。彼が最後の船場商人と呼ばれるゆえんだろう。

終戦直後の混乱が終わり、独立を回復すると、人々はうまい酒を求めた。苦しい時代に守り続けた山崎の原酒は、まさに宝の山だった。ここから戦後の洋酒文化が花開いた。

「うまい、やすい」のコピーで知られるトリスは、2級ウイスキーだったが、限度いっぱいまで原酒率を高めた、本物に近い味わいだった。

 全国津々浦々ににトリスバーが展開し、仕事帰りのサラリーマンが気軽にウイスキーを飲む時代がやって来た。高級酒「サントリーオールド」の販売も再開された。

 信治郎は広告の名手だったが、戦後にその役割を担ったのは、PR誌「洋酒天国」の編集長を務めた開高健、山口瞳たちだった。開高が芥川賞、山口が直木賞受賞作家というメンバーで、広告界に新風を吹き込んだ。

その頃、すでに時代は佐治敬三ら次の世代に移っていた。信治郎は、昭和三七(一九六二)年に世を去った。享年八十三歳だった。

 

最後に、信治郎の社会福祉事業についてまとめておきたい。

信治郎はかねて、「利益三分主義」を唱えていた。事業の成功はお客様や世の中のおかげだから、得た利益の3分の1は「社会貢献」3分の1は「お得意様へのサービス」で還元し、残りの3分の1を「事業への再投資」に充てるというのだ。

その根底には、神仏への篤い信仰心があった。とくに幼い頃、母に連れられて大阪天満宮に通った思い出は、信治郎の中で生き続けていた。

もちろん、商売繁盛を願ってというのが大きかっただろう。もともと酒造業は米、水、気温等の自然現象に左右されるため、神様を大切にする。えべっさんのような商売繁盛の神様も、庶民の信仰を集めている。

だが信治郎の場合は、宗派を問わなかった。新製品が出来ても、瓶のデザインや広告ができても、まず本店と自宅の神棚に上げて成功を祈願した。社長室には仏壇を置き、月初めには必ず僧侶に読経してもらった。これは工場や支店でも同様だった。寺社仏閣の行事にもよく参加したため、本社に一時、神仏課が置かれていたことがあったという。

だがご利益的な意味だけではなく、その根底に命あるものへの深い思いがあった。仏教や神道では、殺生を戒めるため、捕獲した鳥獣を逃がす放生会(ほうじょうえ)という儀式がある。

信治郎もコイ、フナ、すっぽんなどを何千匹も買って、堂島川に放した。そのすぐ下流で、漁師がしきりと網を打っていたが、それを指摘されても「たとえわずかでも、網を逃れて生き延びてくれたら、それでええんや」と、意に介さなかった。

同じような逸話は、戦後間もない頃にもある。大阪駅の周辺にいる多数の浮浪者を見た信治郎は、社員に粥の炊き出しを命じた。日本中が戦災で大変な頃だったから、その社員は「大将、きりがおまへんで」と反対したらしい。それに対して、こう答えたという。

「あほやな。日本中まで手が回らんからいうて、目の前の気の毒な人をほうっておくことはないやないか」

貧しい学生への奨学金の給付にも熱心だった。大学、専門学校の教授に頼んで、優秀な学生を推薦してもらい、匿名で支給した。名前を探しあてた学生がお礼に来ても、会おうとしなかった。幼い頃に母に厳しく教えられた「陰徳」の実践だった。給付を受けた苦学生の中には物理学者の中谷宇吉郎、哲学者の森信三らがいた。

信治郎の哲学は、サントリーの企業文化として受け継がれた。サントリー美術館、サントリーホールの建設を始め、音楽、芸術、スポーツなど幅広い分野で、社会貢献活動を行っている。

これらの淵源にあるのが、幼い息子の手を引いて天満宮に通い、厳しく「陰徳」を教えた母こまにあるのだとしたら、一人の母親の力の偉大さに驚くしかないといえよう。

                                           (終)