コラム

「誠実は人を裏切らない 早川徳次   第4話」

シャープ・ペンシルの成功で若くして成功を収めた早川徳次は、関東大震災で仕事と家族をすべて失ってしまう。これまでの事業を日本文具に譲渡し、十余名の部下と大阪に下った徳次は、天王寺南郊の西田辺の田園地帯に新たに工場を構えて再起をはかった。

そんなある年の暮れ、懇意にしている心斎橋の時計店で、徳次はアメリカ製の鉱石ラジオを目にした。その瞬間、激しく胸が高鳴った。初めておもちゃの操出鉛筆を手にした時と、同じ感覚である。徳次は即座にそれを買い求めて、工場に持って帰った。

鉱石ラジオは、真空管が登場する以前の原始的なラジオで、現在でも科学の実験などで使われることがある。当時はラジオの黎明期で、国内のラジオ放送開始は翌春だった。受信機はみな外国製なのが当たり前だった。

小学校を二年で中退した徳次には、むろん電機や通信の専門知識はない。しかし、叩き上げた職人の腕とカンがあった。工場に持ち帰って中を開けてみて、これと同じ部品を製造して組み立てることならできると思った。

いったん夢中になると、夜も昼もなくなるのが徳次の常だった。通常の仕事の合間をぬって、工場の全員で手分けをして分解と研究にあたり、一つ一つの部品を手探りで試作していった。そしてついに国内初となる受信機第一号が完成したのは三か月後だった。

大正十四(一九二五)年三月、東京で国内初のラジオ放送が行われた。大阪では六月一日に、三越に置かれた仮放送所から最初の電波が流された。その時、早川の工場では、みながセットを奪い合うようにして耳を傾けた。放送は実に明瞭に聞き取れた。

徳次はそのラジオにシャープ・ダインという名前を付け、一台三円五十銭で売り出した。外国製に比べればはるかに安くまた品質も優れていたので、文字通り飛ぶように売れた。ラジオを納品した徳次が伝票を書いている横で、来店した客がそれを買い求めるという有様だったらしい。徳次はラジオの組立てを、流れ作業による分業化した。当時としてはかなり斬新で、これで生産能力が大幅に上がった。

営業面も強化した。西田辺では不便なので、現在の靭公園内に店舗を設けて、卸販売を始めた。東京に出張所を開設して、兄の政治を所長とした。国内の各地で見本市を開いて、新たな販売ルートを開拓した。

ところが、そんな折に、一通の内容証明が送られてきた。差出人は日本文具で、シャープ・ペンシルの特約店契約にかかる契約金等二万円を支払えというものだった。それはすでに五年前の事業譲渡で、すべて片が付いたはずだった。何かの間違いだろと思って、徳次はそれを打ち捨てておいた。

 

ところが、それから一か月ほどたって、突然税務署員がやって来て、工場の機械類に差押えの紙を貼り始めた。いわゆる強制執行である。徳次は、はらわたが煮えくり返る思いだったが、何をどう説明してもまったく聞き入れてもらえない。機械が使えなくなれば、会社の営業がストップしてしまう。

やむなく徳次は金庫のカネを洗いざらい出し、不足分は知人に融通してもらい、何とか五千円のカネを作って差押えを免れた。ところがそのために、従業員に給料が支払えなくなった。暮れも押し迫った二十四日だった。徳次はさらに金策に走った。元旦の朝の徳次の財布には、わずか二十四銭しかなかった。

事情が判明した。日本文具の二万円の件はすべて口約束で済ませていて、弁済についての合意書、機械類の受領書、特許についての譲渡契約書等、何一つ作成していなかった。日本文具はすべて承知の上で、二重払いを要求してきたのだった。それもラジオの製造が軌道に乗ったタイミングを見計らっててである。

徳次は中山社長の冷酷で高慢な顔を思い浮かべた。自分の人の好さとわきの甘さが招いた失態だったが、従業員たちは激高した。彼らは東京から徳次に付いて来て、事業譲渡の経緯はもちろん、日本文具に機械類を搬入し、徳次の特許を使って製造に当たるところまで、すべて知っているのだから当然だった。

実際徳次にしても到底納得できるものではなく、即座に訴訟を起こした。ところが案に相違して、裁判は徳次に不利だった。二年十か月争った所で、裁判官から「一万五千円の分割払いでの和解」を勧告された。これ以上続けても、勝てないというのだ。徳次は泣く泣く従わざるをえなかった。

会社の資金繰りは楽ではなかった ラジオは相変わらず順調だったが、ライバル会社が続々と参入していたし、設備投資にも費用が掛かっていた そこにこの支払である。しかし この信義にもとる仕打ちが、かえって社内を一丸にし、燃え上がらせた。

相手の弱みに付け込んだまったく筋の通らない請求だったが、それでも徳次はいったん和解をした以上、誠実に支払いを続けた。ようやく全ての支払いが終わった時、肩から重荷を下ろした解放感があった。

そこへ相手方の弁護士が来社した。裁判中に何度も煮え湯を飲まされた、タフな交渉相手である。もちろんこの弁護士自身、すべての事情を知った上で、法廷闘争を仕掛けていたのだ。何を言い出すのかと警戒する徳次に、彼は感に堪えたように言った。

「早川さんは一切、約束を違えなかった……。本当に感服した。私の息子を託せるのはあなたしかいない」

何と息子のシャープ入社を依頼しにきたのである。もっとも、徳次は流石に苦笑いして断ったという。

後年になって、徳次はその著書の中でこう語っている。

「誠実は裏切られても、誠実の価値は少しも変わりはしないだろうし、長年月の間には、誠実が立派にものをいうと信じたい」

 この試練を乗り越えることで会社も徳次自身も、一回り大きく成長したのだった。だがその前途には、戦争の黒い雲が立ちこめていた。