コラム

「誠実は人を裏切らない 早川徳次   第3話」

金属細工の職人坂田芳松の許での足かけ十年に及ぶ徒弟生活が終わった。独立した早川徳次は、徳尾錠というバックルや巻島式の水道ねじなど、新工夫の製品で順調に売上を伸ばしていった。

次にセルロイド製で壊れやすかった操出鉛筆を改良した金属ペンシルを発明したが、予想に反して問屋筋の反応は鈍かった。新しい商品の便利さが理解できなかったのだ。絶対に売れるという確信があっただけに、徳次の苦悩は深かった。

そんなある日、横浜の外国商館から、突然「ぜひ買いたい」という連絡があった。兄の政治があちこちに送った見本の一つが届いていたのだ。

その頃欧州では、すでにドイツ製の操出鉛筆が一般に流通していた。ところが第一次世界大戦で入荷が止まったため、それに負けない品質の早川製が注目されたのである。徳次はそれに「シャープ・ペンシル」と命名した。

外国商館からの注文はケタ違いの量だった。徳次は工場を拡張し、人を増やした。舶来の商品が高級品とされた時代である。外国で売れているという評判を聞いて、国内の問屋筋からも注文が殺到した。しかしその時には、すでに立場が逆転していた。注文に応じきれないため、早川製のシャープ・ペンシルはプレミアがついて取引された。

いったん火が点くと、ブームは止まらなかった。従業員はまたたくまに百人を超え、事務所と新工場を新たに建設した。それでも間に合わず翌年分工場を建設し、さらに第三工場の土地を亀戸に購入した。

徳次は若き成功者だった。子ども時代の辛さを思うと、夢のようだった。徳次はすでに三十歳になっていた。ところが、そんな得意の絶頂から奈落の底に突き落とされる事件が起こった。関東大震災である。

大正十二(一九二二)年九月一日は残暑がひどく、朝から空気がよどんでいた。午前十一時五十八分。知人の家にいた徳次は、爆風のような衝撃を受けて、いきなり座敷の片隅まで飛ばされた。その直後、大浪に揺り上げられるような振動がやってきた。障子がバタバタと倒れた。外に出ると、あちこちですさまじい絶叫が響いていた。

徳次は挨拶もそこそこに工場に向かった。二百メートルほどの距離だったが、時間が止まったように感じられた。工場もそれに隣接する家も、堅牢に造っていたので無事だった。だが、まもなく、あちこちで火の手が上がり始めた。昼前だったので、かまどで食事の支度をしている家が多かったのだ。

工場には社員やその家族、近所の人まで避難していた。徳次は彼らに食料とカネ、衣類に布団などを分け与えた。近くにある岩崎邸の別邸が敷地も広く木立も深いので、避難場所に良いだろうということになった。徳次は信頼できる社員に妻と二人の子どもを託して先発させ、自分は最後まで残って後始末にあたった。

そしていよいよという状況になり、布団を頭からかぶって駆け出したが、その時にはすでに、人の波でどこも溢れていた。本所深川は堀割の多い地域で、橋という橋が、家財道具を満載した大八車で身動きが取れない状態になっていた。

火の手は容赦なく背後から迫り、ついに橋を飲み込んだ。徳次は橋から飛び降りて鉄製の橋げたにつかまった。何百人もの人が同様に逃れてきたが、熱と煙のために次々と川の中に沈んでいった。徳次は水面すれすれで橋げたにつかまり、水中に潜っては顔を出し、ひたすら耐えた。こうして午後四時くらいから翌朝になって、ようやく這い出すことができた。後日の調査ではこの橋付近で約八百人が亡くなり、生存者はわずか三、四名だったという。

岩崎の別邸では生き残った社員たちと再会した。しかし徳次の二人の子どもは助からず、。妻も全身火傷の重傷を負い後に亡くなった。

そこにさらに追い打ちをかける事件が起こった。早川兄弟商会は、日本文具とシャープ・ペンシルの特約店契約を結び、契約金一万円と事業資金一万円を受け取っていた。その即時返還を求められたのである。日本文具への売掛金も九千円余りあったが、それと相殺してもとても払える額ではなかった。

徳次は悩んだ末に、事業譲渡をする決心をした。つまり、所有する機械類(二万二千円余)と特許をすべて日本文具に譲渡し、技術指導のために半年間大阪の日本文具の工場で働くことで、債務の履行に代えることにしたのである。だがこの問題はこれでは終わらず、後にさらに大きな紛争になるのである。

家族と仕事を同時にすべて失った徳次の傷口は深かった。普通の人間なら、そのままダメになってもおかしくはなかった。だが徳次には責任があった。自分と同様に家族と失い、路頭に迷う従業員たちがいたのである。徳次は彼らに再就職の便宜を図ってやり、希望する者十余人を日本文具に連れていくことにした。

徳次を中心にした旧早川出身者は、みな腕に自信のある者ばかりだった。製造は順調に軌道に乗ったが、徳次の眼から見れば会社の運営はどこか筋がとおっていなかったし、社長の中山氏も高慢な人柄に思えた。半年の契約はさらに二か月延長されたが、徳次はそこで見切りを付けて独立することにした。

新たな工場の地は、大阪市東成郡猿山村田辺(現在の阿倍野区田辺町)である。天王寺の南郊で、当時は一面の田園地帯だった。収穫した大根が堤に干され、子どもたちが遊びまわっていた。だが徳次の眼には、彼らが大人になって、拡張した工場で働いている様子が、ありありと浮かんでいたのである。

シャープ・ペンシルはもう造れないので、東京時代に経験のある万年筆の金具を始めた。徳次が自ら営業にまわったが、品質がいいのでどこも喜んで買ってくれた。そうするうちに、日本文具に残してきた旧部下たちが、徳次を慕って一人またひとりとやって来た。結局全員が再び徳次の許で働くことになった。事業は順調に発展していった。

そんなある日、たまたま懇意にしている心斎橋の石原時計店を訪れた徳次は、そこで驚くべき新製品を目にしたのだった。アメリカ製の鉱石ラジオである。